Closer
- 疑惑の恋人 -

20061103

2.


  男は電話で「悪いな」と言って姿を消した。
  男が私の前から姿を消すのは二度目。
  前回と同様に突然に、だ。
  だが今回は電話で最後の言葉を残して行った。
  大学、院を卒業してから勤めていた大学に辞表を提出し、下宿を綺麗に引き払い、痕跡を残すことなく消えてしまった。
  そして男からの最後の連絡あった次の日に京都府警に通報があり、男はいともたやすく身柄を拘束された。
  名目上は重要参考人。
  男がいたのは京都市内にある寺の境内。
  男とは縁も所縁もない墓石の前。
  黒いトレンチの両ポケットに手を突っ込み、火の点いていないタバコをくわえたまま墓石に記された名前をじっと見ていたそうだ。
  そして警察官が声を掛けると、両手を挙げて、抵抗もせず両手を差し出したと言う。
  だがj警察官は手錠を出さずに「重要参考人としてご同行願います」と頭を下げて火村をパトカーに乗せた。
  犯罪を知りすぎている男。
  私は男を「臨床犯罪学者」と勝手に名付け呼んでいた。
  幾度となく犯罪現場において犯罪の実態を暴き、殺人犯たちを追い詰めていった。
  そんな男が人を殺したと言うのだ。何かの間違いだろう。
  何の抵抗もせずにサイレンを消したパトカーに乗り込んだのだ。

 殺害されたのは四十二歳の男性。
  発見されたのは京都市内左京区に位置する自宅。
  揉み合った形跡もなく床に倒れていた男性の心臓の下あたりに刺さっていた包丁には男の指紋。その包丁は男が長年愛用していた柳場包丁を丹念に砥いで小さくなったものだったからだ。
  学生時代のバイトで譲り受けたというもので、作家の名前が彫られている由緒正しいものだった。
  証拠品である包丁を見せてもらって声も出せなかった。目の前の凶器は馴染み深いものだったのだ。いつでもその包丁で料理の材料を刻み、細工し、空腹の私をもてなしてくれたのだ。
  京都の下宿を鮫山さんや森下さんに付き合ってもらい訪ねると、私同様に青ざめた老婦人が居間で一人泣いていた。
  男が下宿していた部屋は物の見事に塵一つ落ちていない様子で蛻(もぬけ)の殻になっており、残っているものは男が吸っていたキャメルの煙の香りだけだった。
  下宿の大家である篠宮夫人は昨日までの一週間を金沢に住む娘夫婦宅に滞在していたとのことで、その間に荷物すべてを引き払っていたのであろう。
  男が事を計画し、予測してすべてを引き払ったのだろうか。
  拘置所の中の男は誰とも口を利かず目をあわすこともせず、ただ一点、空を見つめ続けていると言う。
  誰もが心神喪失を装っているのかと囁いていたが、一点を見続ける目は自分を失っていなかったと言う。自分がやったことではないと言っているような目だったと鮫山さんは私に教えてくれた。
「私は火村先生が殺人犯やなんて思うてません」きっぱりと強い口調で言い切るが、私は男が以前口にした言葉が引っかかり、頭の中で「まさか」「もしかして」を繰り返していた。
  人一倍理性的だった男がこんなことをするはずが無いのだ。
 
  信じている。
 
  あの長くて綺麗で力強い暖かい手が血で染まっていませんようにと、祈るが、伝え聞こえてくる男についての知らせは私の祈りと願いを打ち砕くものばかりであった。
  凶器に付着している指紋。
  目撃証言。
  通報者による殺害現状。
  そして何よりも自分の身辺を整理していたことが一番疑惑を深めることになった。部屋の荷物を運び出す手配をしたのは火村だというのだ。運送会社、トランクルームサービスの会社には火村の名前と下宿の住所で見積もりと支払いなどが済まされていた。
  報道規制は敷かれているものの一部の報道では勤務していた大学と学生たちのインタビューが流れた。
  事件から一週間もたたない内に、三流ゴシップ雑誌には男の生い立ちからすべてを書き立てられ、目に黒線を入れた顔写真つきで掲載された。
「犯人やと決まってへんのに」
「でも、余りにも状況が不利です」
「殺された人は何をしている人やったんですか」
「高校の教諭」鮫山さんが言うとすかさず、森下さんが「社会科の」と付け足した。
「そうですか」
  殺された人の事を聞いてどうしようと言うのだろうか。
  共通点はないように思える。
「有栖川先生には色々と教えていただかないといけません。火村先生の交友関係など含めて」
  鮫山さんはメタルフレームの眼鏡のテンプルに中指をあててずれをなおし、黒い手帳を開いた。メタルフレームの眼鏡がよりいっそう怜悧に見せる。どっかの誰かよりインテリで学者様に見える。
「正直言うて、俺はあいつのことあんまり知らんのですよ。大学からの付き合いですから、それ以前は何も知りません。ただ、あいつの横腹に丸い不思議な瑕が合って、アメリカにいた頃の傷とかそんなことしか…あ、あの雑誌がすべてなんちゃいますか」
  コンビニで立ち読みしたあの三流雑誌だ。
  生い立ちを記したあの記事。
  そして現在の恋人の有無など。
「ああ、あれですね」と鮫山さんは頷く。雑誌を読んだのだろう。
「アレはなんか、出版社に匿名で記事提供があったらしいですよ。妙な話ですがそれも火村先生の身柄が拘束されてすぐだそうだったようです」
  年若い森下さんが黒い手帳をめくりながら教えてくれた。
  火村が警察に身柄確保されてすぐに出版社へのタレコミ。変な感じがする。
「そういえば『秘密の恋人』そういう表現がありましたね。隅に置けない人だったんだなぁ火村先生って。まあ、もっとも男の俺の目から見ても文句なしにかっこいいですよ。ただ、ファッションセンスはアレだけど」
  どきりとするような言葉を森下さんの口から出たが、文句なしにかっこいいといいながらも火村のファッションセンス(おそらく碁石ファッションの事だろう)を貶している。 
  『秘密の恋人』
  私のことだとでも言うのだろうか。
  奴と私の関係は公にはしていないものの、見る人が見たら分かったかもしれない。だからと言って、あからさまに公衆の面前で「恋人同士」と言うような振る舞いもしたことはない。
  それに、こういう事件に巻き込まれているにも関わらず、火村は私に何一つ相談もなかった。素振りもなかった。これで『恋人』と言えるのだろうか。
「ただ、警察としてはあの記事は差し押さえたいものでした。名指しはしていないものの知っている人が読めば一目瞭然です。人権侵害、名誉毀損になりますからね。まだ犯人と断定もしていないのにもかかわらず、その上、報道協定ぎりぎりのラインでの記事掲載ですからね」
  どの殺人事件とも書かれておらず、ただ見出しに『容疑者は大学助教授!大学助教授の華麗な経歴』とドラマティックなタイトルが付けられていた。その上、大学名を「京都の有名私立E大学」と書いてあり、これでは一目瞭然ではないか。
  報道協定で規制されている以上マスコミ各誌は逸脱はしてはいけない。
  この三流ゴシップ誌は事件を特定せずぎりぎりのラインで記事を掲載した。
「そろそろ有栖川先生のところにも記者が群がるはずです」
  ニ、三日前に家を出るときに感じた視線はそれだったか。
  マンションのエントランス横に怪しげな男が二人ほど隠れていた。一人は小型のデジタルカメラを手に。もう一人は携帯電話のカメラをこちらに向けていた。ネットには晒されているだろうとは推測はしている。今度見かけたら、名刺を貰っておかなければ。
  いや、奪っておかなければ。

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