Closer
- 疑惑の恋人 -

20061103

3.

 殺された男性と火村との接点はない。
  あるとすれば同じように教壇に立っていたと言うことである。
  四十二歳の男、宇津木健一と三十四歳の火村。
  宇津木には家族はなく、宇津木の遺体を確認に来た恋人と言う女性だけだった。
  なくなった宇津木の遺体を確認に来た恋人の女性は沢海修子(さわみのぶこ)三十一歳、宇津木が勤めていた高校で事務員をしている。
  華やかな和風美人で意志の強さが見られる女性だと、極私的な見解を森下さんは私に伝えてきた。
  死体に縋って泣くこともせず、ただ、顔にかぶせられた白い布をめくり、じっと見つめていたと言う。
「火村先生は誰とも面会をされていないようです。弁護士も用立てていないようですし、何しろ、一言も誰ともお話になってはいません。取調べの刑事に対してものらりくらりと視線を合わすことなくかわしているようです」
「まだ、『先生』ってい言わはるんやね」
「火村先生は『容疑者』じゃないです」
  森下さんは力強く言い切った。
「そうやね」
「あ、さっき連絡が入ったのですが、例の雑誌ですが、自社回収されましたよ」
「そうなん?」
「ええすでに五千部近く出ているらしいですが」
「結構少なめ?」
「全国雑誌にしてはそうですね」
  雑誌社のホームページに謝罪文が掲載されるとのこと。
  と言うことは警察としては火村は「容疑者」ではないという判断を下したと言うことなのだろうか。
  どうりでパパラッチが今日はいないはずだと思った。
「断言は出来ませんが、ね」
「罠かなあ」
「先生の部屋が一掃されていたこととか、包丁が盗まれていたとか?」
「まあ、この辺は火村が何も言わないんだから分かり様がないけどな」
「そうです。何も話してはくれないのです。目もあわせてくれないのです」
  森下さんは肩を落とした。
  まだいいじゃないか。
  私に至っては面会もさせてもらえず、面会の申請はしても、火村本人に拒否されているのだ。

 どういうつもりだ。

 
  火村の事件を耳にした火村の教え子である貴島朱美が手土産と共に私の家に訪ねてきてくれた。
  大学での事件のうわさなどについて教えてくれた。
  面白がっている学生は多いが、ゼミの生徒は火村の犯行を否定している。その理由はこうだ。
「火村先生だったら、完全犯罪遂行できるはず」
「いかにも!な証拠を残すはずがない」
「もっと用意周到なはず」
「手際悪すぎ」など、まあ、確かに火村が計画的殺人を犯すならばそうかもしれないが…なんていうか、まあ、生徒の理由は尤もな気はする。
「なんかちょっと安心した」
「そうですか」それは良かったです。と小さく微笑んだ。
「ありがとうね」
  彼女が持って来てくれた手土産を解き中身を取り出した。ミナミで評判の洋菓子店のものだった。
「コーヒーでええ?諸事情でインスタントしかないけど」
  キッチンにコーヒーを入れに行き、トレイに乗せたカップとケーキ用の皿をリビングに運んだ。
「あ、お構いなく」
「今の俺やと、あんまり食わへンからな…一緒に食ったって」
  朱美ちゃんの前にケーキとコーヒーの入ったカップを置いた。
「その後火村先生とは会われたんですか?」
  朱美ちゃんの質問に最初は首を横に振った。
「大阪府警の人づてで面会申し込んだんやけど、拒否された」
「え?」
  朱美ちゃんはフォークを落とした。
「火村本人にな。あいつは誰とも弁護士とも面会拒否しているらしい」
「あくまでも犯行を否定しているって事なのでしょう」
「まあ、それもあるかも知れへんねんけどな、なんか捨て鉢になってへんやろうかとおもうんや」
「大丈夫ですってば。有栖川先生らしくないですよ」
  少しさびしげに微笑む彼女は今の私の目には女神に映った。
「せやな」
「思うんですけど、火村先生は何者かの罠にかかってしまったということではないでしょうか」
「まあそうともいえるかもな」
  モンブランを頬張る。自分でも少々あきれるのだが、人間どんなときでも腹は減るものだなと。
  火村はちゃんと食べているのだろうか。
「それにしても、犯人は手をかけていますよねぇ。いろいろと隙はあるようですけど」
  朱美ちゃんは私と同じようにモンブランを頬張りながらのんびりと呟いた。
  同じように私ものんびりとうなずいた。
「うんまあ、そうやなぁ」
「何も無くなった部屋」
「火村の愛用の包丁」
「身近なもので何かなくなったものはありませんかと聞かれても、部屋のすべてが無くなりました。としか言いようが無いもんなあ」
  閑静な住宅街の日本家屋。高くは無い塀はたやすく越えることが出来るだろう。
  火村をはめた人間は誰もいない家に忍び込んだのだろう。
「アレは火村先生がしたのではないのでしょうね?」
  朱美ちゃんはフォークを咥えたまま首をかしげた。
「部屋の荷物か?」
「ええ、火村先生ならば、すべてを捨てる覚悟があるのだとすれば、忽然と消えるはずです。誰にも知らせず。有栖川先生にも知らせずに」
  一回り以上年の離れている若い学生に本質を見透かされていた。
「せやなあいつやったら、誰にも何も知らせずにある日突然やな。モノにも執着しない性質(さが)やさかい、何もかもがすべてそのままで消えてしまう。そう、忽然と」
  経験がある。
  私が火村を殴り飛ばした日の翌日。火村はアメリカへと旅立っていた。すべてそのままに、そして、忽然と姿を消したのだ。
  ふと私の中にあの時の恐怖感が蘇る。
  半年もの間、私はあの月日をどう過ごして生きていたのか思い出せない。
  ただ、なんとなく、会社に行って、部屋の留守電を確かめて、休みには下宿に赴いて、何もしていなかった。ルーチンワークをやり過ごし、火村の部屋でずっと待っていた。ぽっかりと大きな穴の開いた心のまま。
「そうや、あいつは何も言わずに消えるような奴や」
  強烈な存在感を醸し出しながらもまとう空気の中にはいつ消えるかわからないあはkなさと危うさがあった。
  だが、今回は電話があったじゃないか。
  たった一言だけど、笑いながら「悪いな」って。
「でも、大学の部屋はそのままだったな。さすがの犯人も人目の多い大学にまでは手を出しにくかったんやろう」
「痕跡残さず、辞職したにも関わらず、大学の部屋の荷物は放置ですよ?」
  昨日確かに、捜査員の出入りで多少は乱れてはいたが、特に変わったことは無かったが、ふと思い出したことがあった。
  それは火村が身柄確保された時の状況。
  その時火村はどこにいた。

「柳井警部に連絡や!」

 確かめなければいけないことがあった。
  火村がなぜあの墓の前にいたのか。
  そして何も語らないわけを。


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