Closer
- 疑惑の恋人 -

20061103

6.


  沢海修子が発見されたのは彼女の職場でもある高校の屋上だった。
  グラウンドの校舎の壁際にはブルーシートの上にマットレスなどが設置されていた。見上げると風に髪をなびかせて立っている人影が合った。
  私たちが屋上にたどり着くと刑事らしき女性が沢海修子を説得していたが、修子はフェンス向こうで、呆然とどこを見るともなく立っていた。
「沢海さん、いや、高瀬修子さん」警部が彼女を呼んだ。
「ほんと、警察を舐めていたかも」ちらりと私たちを一瞥し、寂しげに笑いまた前を向いた。
「死にたいのに」
  ぽつり。
「死ねないの」
  修子の声は姿と同じように儚げで透明な声だった。
「残された人間は逝ってしまった人間の言葉に縛られるの」
  歌うような声。
「実の父」
  木山祥吾のことか。
「母さん」
  母親。
「兄さん」
  高瀬広和。
「健一さん…」
  逝ってしまった恋人。
「みんないなくなるの」
  天蓋孤独の身となった女は風に身を任せるように揺れながら立っている。
  風邪に消えそうな儚さ。
「沢海修子さん、そんなところに立ってないでこちらに戻ってください。危ないですよ」
  警部が修子を引き戻そうとする。他の刑事たちもじりじりとフェンスに引き寄せられるようににじり寄っている。
  修子は振り返り首を振る。
「いいえ、警部さん、もう戻るつもりはないの」
  儚い笑みを浮かべたまま再び前を見る。
  穏やかな表情の修子に対し、警部の表情は硬く、どうすれば修子を引き戻せるか、考えあぐねている様に見える。
「たとえ、あなたがそこから飛び降りたとしても死ねるとは限りません。し寝ない可能性のほうが高いのですよ。それに私たちはあなたを『宇津木健一』さんについて伺わなければいけないのです。家宅侵入罪、死体遺棄容疑と擬装の疑いで連行しなければいけないのですよ」
「本当、日本の警察って優秀だったのね。あの先生がいなくてもちゃんと証明できるのね」
  修子の口から出たあの先生、火村のことを指している。
「あの先生さえ口を出さなければ…」
  先刻までの穏やかだった表情が一変して険しい表情になり、フェンスの網を掴みほえる様に叫び始めた。
「兄は死なずにすんだのよ!」
  フェンスを掴む手にこめられた力は凄まじく、ぎりぎりと音が聞こえてくる。
「あのストーカー男を司法は、あの男を精神異常とみなし病院に放り込んだ。それは私たちの越された家族にとって何の意味もなかったのよっ!」
  高瀬広和が殺害したストーカー。
「あの男が生きている限り消えなかったの。あの男が耳元でずっと囁いていたの。『逃がさない。逃がさない。逃れない』ってドアをどんどん叩くのよ」
  脅迫観念が抜けていなっかた。PTSDと言う症状。
「耳を塞いでも、付きまとっていたの」
  修子はしゃがみこみ耳を塞いだ。
「あの男はあなたには何も出来なかったはずです。現にずっと…」
「奴が何通か手紙を出していた事実があります」警部の部下の捜査員が口をはさんだ。
  家族にあてた手紙は検閲されて投函されるはずだが、ストーカーが検閲を通るような内容の手紙をストーキングしていた女性に送るだろうか。
「手紙の内容は家族に当てた言葉でした」
「その家族あての手紙が私のところに届けられたのよ。息子が詫びを入れているってあいつの母親が持ってきたわ」
「それは我々警察の落ち度です。警察がどんなに頼まれても詫びを入れたいといっても、加害者の家族に被害者の自宅住所などを教えてはいけないはずです」
  苦虫をかんだような表情で警部は修子に向かって頭を下げた。
「私はずっと縛られ続けるの」
  修子はしゃがんだまま両手で顔を覆い泣き崩れた。
  その瞬間を待って警官たちがフェンスを越えて修子の身柄を確保した。
  フェンスの中に戻された修子は力なく地面にへたり込んだ。
「火村先生を巻き込んだのはどうしてですか。それに、冤罪、簡単に罪を他人に擦り付ける事ができたということは逆も然りなのですよ。第一われわれの目は節穴ではありません」
  警部は単刀直入に呆然としている修子に尋ねた。
  力なく笑いながら警部の問いかけに答える修子。
「あの男があんなことしなければ、母も父も死なずにすんだ。兄も手を汚すことなんて無かったのに!あの先生があの時現れなかったら、そっとしといてくれれば、兄さんと二人で生きていけたのに!」
  高瀬広和が殺人を起こしたときに火村が駆けつけなければ良かったと言っているのだ。だが、日本の警察はそんなに甘くはない。火村が操作現場にいなくても事件は明るみに出て、正当な裁きを受けたはずだ。
「沢海さん、あなたは何か勘違いをされているようだ。火村先生が現れなくても事件は、犯人は突き止められましたよ、あまり警察を舐めないでください」と、厳しい口調の警部。
  火村にとって殺人を犯した人間はどんな訳有であっても罪は罪として事件を暴き出す。そう考えると自然に言葉が出ていた。
「火村は何に対しても平等なんや」
  たとえ、俺が殺人事件を起こし、様々な偽装を施しても恋人である前に犯罪者として暴き出すだろう。
「偽善だわ」
  修子の力のない声が返ってきた。
「違う。あいつには事件の前に偽善と言う言葉はあらへん」
「何が違うって言うのよ!殺されて当然の人間だったじゃないの!」
  かっと目を見開き噛み付くように言い返す修子。だが、私も負けて入られまいと、「だからといって殺していい理由にはならん」と言い返した。
「どんな理由であれ、人を殺めてしまった時点で、殺人なんやで。例え正当防衛で済ませられたとしても、あんたはずっと血で汚れた手を切り離すことも出来ずに、生きていかなあかんのや!」
「悪いのはあいつらなのに!私がっ!私ばっかりが責め苦を負わなくてはいけないのはまちがってる!」
「せやけど、あなたは間違ってるんや。ストーカー男のしたことは犯罪やけど、あなたがしたことも同じになる」
「だけど、もう耐えられなかったのよ!人殺しの娘と散々罵られ続けたのよ!」
  彼女の悲痛な叫び。
  極限まで膨れ上がっていた怒りなのだろう。
「人殺しの血を引く娘でも慈しんでくれ、愛してくれたのにっ!」
  悲痛な叫びであったが、私も私とて、大事な人間が貶められているのを黙って見過ごすことは出来なかった。だから、ついつい口を挟んでしまったのだ。
「でもあなたは愛してくれた宇津木さんより、兄である死んだ高瀬広和を愛してたんでしょう。せやから、死期を悟った宇津木さんに偽装自殺をお願いしたんでしょ。残酷な話や」 
「貴方は?」
  やっと私の存在に気がついた様子である。恐らくは取り囲んでいた警察官と同じように見られていたのであろう。
「沢海さんが仕組んだ様々な工作の所為で小さいけど被害をこうむった一人や。火村の友人の有栖川って言います」
  名乗ると修子は鼻で笑い「ああ、あの小説家の」と私を睨みつけ、小さなため息を落とす。
「もう言い逃れは出来ないのね」
「全部話していただけるんですか」
  警部が穏やかな口調で訪ねた。
「だって、死ぬことを選ぶことも出来ないんですもの」後ろにも前にも道がないんですもの。
  沢海修子はあきらめたように呟く。
「警部さん、連れて行っていただけますか」
  修子はしゃがんだまま両手首を合わせて出したが、警部は手錠を出そうとはせず、女性警官を呼び、沢海修子に肩を貸すよう指示をした。
「では有栖川さん、ありがとうございました。火村先生ですが本日中に処理を済ませてからのお戻りなられると思います」
  警部は振り向きざまにそう残していった。

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