Hung Over

20011008UP


酒を飲んでも飲まれるな。

 この言葉が指し示すとおり、俺は度を越したことはない。と、内心呟きながら酔いつぶれ己を無くした自分の恋人寝顔を眺めながら呟く。
 推理小説家である安らかな寝息を立てている男は、なんでも、文壇を揺るがすほどの発言力、影響力があるといわれる評論家にこっぴどく叩かれたらしく、火村がアリスの宿泊しているホテルの部屋に到着すると、アリスはベッドはがらになく自棄酒を一人で煽って酔っ払っていた。
 殆ど専属と言っていいぐらいにアリスを使ってくれている出版社の創立記念パーティーで、『君の描くところの青年たちは現実味が伴っていないんだよ、昨今の若者はもっと俗物で、姑息な生き物なのだ』と、『トリックもなってないよね、これじゃ単なる事件物の小説だ、いや小説と呼ぶのもおこがましい』と言われたそうだ。
 その場にいた担当の片桐も、会場内の集積者および編集の人間たちもが凍りついた。
 そして、一番凍りついたのがアリス。
 少なくとも有栖川有栖と言う作家は、派手ではないにしろ、そんな痛烈な批評をいわれる覚えもない。ましてや、少々生意気に映りこそすれ、小説家でござい。と鼻にかけるような人間ではない事が編集部では知られている。
 一作一作、心血を注いで、書いている作品を心無い言葉で汚された。
 その場に立ち尽くし、呆然とするアリス。
 アリスを心配した片桐は火村へ連絡した。

 火村が下宿の自室で海外の文献と向かい合っていた頃に、片桐から電話がかかってきた。
『ご多忙中申し訳ないのですが、有栖川さんを迎えに来てもらえませんでしょうか』と、申し訳なさそうな声に、また事件にでも巻き込まれたのか。と訝しげな表情になる。
「何かありましたか」
『一人では多分大阪には帰れないと思うんですよ』と、電話口でおろおろしている片桐の姿が目に浮かぶ。
「で、アリスがどうしたんですか」と、うろたえてしまって、肝心の主語が出てこない電話相手に、半ば呆れながら先を促す。
『申し訳ありません。有栖川さんが荒れてしまって、私たちでは手に負えないんですよ』
「はあ?」荒れてる?
『じつは、文壇の大物評論家の先生に言われた言葉が響いたみたいで…』
「で、今あいつはどうしてるんですか?悪態でもついてますか」と、半ば冗談半分に言うと、『それだったら良いんですけど、朝井先生や、私が止めても、ダメなんです』と泣き声になってきていた。 
『もうすでにボトル一本以上開けてるんです』と、本格的に泣いているようだった。
 ザルのあいつのことだ、散々飲んで寝るまでは止まらない。
「判りました。最終のひかりでそちらに向かいますよ。それまでアリスを見ててもらえますか」と、言ったところ、『もう、部屋にこもってしまって、出てきてくれないのですよ』と、どうにも情ない声が帰ってくる。

 まったく、いい年した大人がちょっとつつかれたぐらいで…

 小さな溜息一つ。
 火村は黒いコートを羽織り、階下の下宿の大家のところへ行く。
 コタツの傍で2匹の猫がうずくまっていた。もう1匹は大家である老婦人のひざの上で寝ていた。
「どうりで、姿を見かけないわけだ」と呟く。普段ならば嫌って言うほど(じつは嫌ではない)人の足元に、手元にじゃれ付いて来るはずなのに、今日は文献に没頭していた所為で相手をしてやらなかったから、それぞれにいじけてしまったのだろう。それに主人が来たってことをわかっているはずなのに尻尾すら動かさずにいる。普段なら飛びつくはずのコオも知らん振りしている。
 編物をしている婦人は障子を開けた火村に気づき「お出かけどすか」と、編物をしている手を休めて老眼鏡を少し下にずらして火村を見る。
「ああ、東京に行って来る」なんでもないように言う。
「今からどすか?」少々呆れ気味に言うが、火村との付き合いが長い所為か、この婦人も滅多なことでは動じない。京女の典型ともいえる強くしなやかな女性である。年老いたい今でも美しくたおやかである。
「また、何か事件どすか?気ぃつけなはれや」と微笑む。
「いや、事件じゃないんだ。まあ、事件とも言えなくはないけどな」と篠宮夫人に微笑み返す。大学関係者たちや、これまで火村と関係のあった人間には想像も出来ないぐらいのとびきりの優しい笑顔。見せるのは家族だけ。ばあちゃんと3匹の愛猫と恋人にだけ。
「まあ、気ぃつけていきなはれ」と、また編物を始める。
「ああ、ばあちゃんも風邪ひかないようにな」と言って障子を閉め、玄関に行く。
 かかと脱ぎをする所為でかかとが少しよれているサイドゴアのブーツに足を通す。
 アリスに押し付けられた靴だ。
 サイズが大きいと火村に半ば強引に押し付けた靴。
 身に付けるものに無頓着な男にアリスは細かく気を使う。
 結局この靴も、サイズが大きくて火村に押し付けたのではなく、元から火村のサイズに合わせてかったものだと、火村は判っていた。「君はもっと身に付けるものに拘らなあかん」人の前に立つ人間なんやから。といつもだらしなく締められたネクタイや、皺だけのジャケットを見るたびに言う。
 最近は余り大学にも遊びにこなくなって、そんなアリスの口癖を聞く事が少なくなっている。お互いがいそがしいくなっていたこともあるが、アリスの新作が上梓されるにあたり、サイン会や講演などであちこちを飛び回り、ここ一月ほどはお互いの顔を見ていない。

 久しぶりか。

 白い気を吐きながら夜道をsa歩く。
 最終の新幹線。間に合えばいいんだけどな。

 

続く…


 
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