早く帰りたいと。
暖かいあの日差しのもとへ戻りたいと。
心は足掻き続ける。
もう2度と救われることはないのか。
もう2度と触れることはないのか。
救われたい。と思うのは罪なのか。
思い出すのは優しい温もりを持った手。
両手を広げて受け止めてくれる腕。
眩闇
Brightness and Darkness
--You are the only that t have really loved and wanted--
気が重い。
留守番電話のメッセージを聞いて溜息を零す。
同じメッセージを聞くのは何回目だろう。
何度、受話器を取ろうとした事か。
その度に自分のしてきた事が思い起こされる。
これは罰なのだろうか?
たった一人の人間に、なにも言わずに
逃げてきたことに対して。「忘れてくれ」そう言い残してでもくれば良かったのか?
火村はバーボンを煽り、頭を掻き毟る。
前にも増して増えた一日のタバコの本数が男の心情を語っている。
「巻き込まれてなかったら、帰りたいなんて思もわねぇよな」
日本にいるときには考えもしなかった『死』との距離。あまりにも近くにありすぎて飲み込まれそうになる。強い誘惑。だけど、自分を留めさせているのは『執着』。
何事にも執着はしないはずの自分が、いまだに引きずっている。男は眼下に広がるネオンを眺めて、紫煙を燻らせる。
捨ててきたはずの未練。
こっちに来る前に無理やり奪った。
喜びよりも罪悪感が残った。
気を失う前のあいつの顔が頭に焼きついて離れない。
「許さへんからな」勝気な瞳が泣きながらも訴える。酷い事をした。
なのに、あいつは俺に連絡をよこせと電話を掛けてくる。期待しても良いのか、それとも俺の弁解が聞きたいのか。
「違うか、俺の方が声をききたいんだ」と口の端をゆがめて笑う。下界は淀んだ風が吹くが、地上30階のペントハウスには夏とは思えない涼しいが風が吹く。
「ヒム、何を考え込んでいるんだ」
バスルームから出てきたプラチナブロンドの男がバスローブを纏いながら、火村がいるバルコニーに出てくる。
「別に」
男の差し出された手を避けるように、ネオン広がる風景を背に、部屋に入った火村を
「別にという顔じゃないな、何か、また考えているのだろう」男は火村の腰に手をまわす。
「そう言えば、今日、君宛に留守番電話が入っていたよ、キュートな声でわけのわからない言葉と、妙な訛りでメッセージが残されてた」さっきまで聞いていた留守番電話に残されていたメッセージ。
明らかに棒読みの英語。わけのわからない言葉は、英語に躓いた時に零れ出た大阪弁。
「ふん」
「ヒムラ~と叫んでもいたな」男は静かに笑い、火村背中から首筋に軽くキスをし、耳朶を噛む。
「……」
火村はメッセージが残っているはずの電話に目を向けた。
「君が日本に残してきた"未練"だね、あのメッセージの人は」
男の口付けは火村の首筋から鎖骨へと、そして唇へと移るが、火村は顔を反対にそむけた。
「再会したときは驚いたよ、すっかり、大人になって…」
男は火村が羽織っているシャツの襟元から手を忍ばせていく。
「大人になってって……ひどい言われようだな」口の端だけ上げて笑う。
「私が知っている君はまだ十代の少年だったんだ、まあ、外見は変わったが、その黒い瞳(ブラックアイ)の鋭さは変わってないよ、そして、この滑らかな肌もだ」
男は火村の胸を片手で慰撫しながら、もう片方の手は下半身へと下りていく。
「調子に乗るなよ、俺はあんたの相手にはならないと始めに言ったよな?忘れたか」
下半身を責めようとしている男の手を払いのけ、「うんざりだ」と言わんばかりに勢い良くソファに座る。
「じゃあ、君は何のためにここにいるんだい?」
火村に拒否されたにもかかわらず、男は余裕の笑みを浮かべ、火村にのしかかるようにして執拗に火村のシャツのはだけた所から手を忍ばせ胸の突起を、火村の中心を攻めるが、火村は微動だにしない。
「何のため?」
何とか火村に体を開かせようとする男に、器用に方眉を上げて侮蔑の笑みを浮かべた。
「決まってるじゃねえか、宿だよ」
男を近寄らせないように体を捩らせ、毛布を纏いソファに横になる。
そう、次の宿を見つけるまでの、宿。
明かりの消された部屋で、火村はソファに仰向けのままタバコに火をつける。
置いてきた未練か。
そう呟く。
何事にも執着しないはずの自分が、唯一、自分のそばに居る事を許した人間。いや、許したわけじゃないが、いつのまにか自分の傍で空気のように馴染んでしまっていた。そして、なくてはならない存在に怖じ気、逃げてきた。
「アリス…」
火村の呟きは吐き出した紫煙とともに虚しく宙を舞う。
無縁と思っていた感情が、封印していた感情が、溢れてくる。
暗い感情がいつも蘇る。
あいつを閉じ込めておきたいと。
縛り付けておきたいと。
一生誰にも、触れさせたくないと。
そして、夢にまで見る、暗い欲望。
殺してでも、自分のものにしておきたくて、夜な夜な見続ける悪夢。
愛しい人間の鮮血を一身に浴び、恍惚に浸る自分。
赤く染まる自分の手を握りしめる。
それを見ている自分は、否定する。
「ちがう」と、生きているからこそ、価値があるのだと自分でそう諭すが、愛しい人間を手にかけた自分は、ヒステリックな笑みを浮かべながら、愛しい人の何も映すことのない閉じた眼に、何も語ることはない唇に、接吻を落としていく。
もうこれで失う事はないのだと。
安堵する自分がいる。
「ちがう!」
いつでも、自分が抱きたいのは、
自分が接吻したいのは、
生きて、笑って、くるくると変わる表情の暖かい春の日差しのようなあいつ。
高めのハスキーな声で話される歯切れの良い大阪弁。
少し色素の薄い髪と明るい瞳。「なにを、センチになってんだか」自重気味の笑いがこぼれる。
ケツの青いガキじゃあるまいし。
逃げたのは自分のほうじゃないか。
奪うだけ奪っておいて、何も言わずに、わざとあいつを遠ざけた。それとも「さよなら」とでも残してきたほうが良かったのか、それとも「まってろ」と言えばよかったのか。「俺もまだまだ青いって事か…」男の口から深い溜息がこぼれる。
こんなにも未練を引きずって、そして、未練をあいつに残してきた。
「忘れてくれなんて、言えないよな」
むしろ、忘れないでくれと、憎まれてまでも自分の存在を残そうとしたのだ。
「許さへんかんからな」といったあいつの目を見て俺は確信した。これでアリスは俺の事など忘れる事は出来ないと。
火村はタバコをいつもより長いところでもみ消した。歪んだ口から零れるのは自嘲とも取れる笑い。そして、祈るように目を閉じる。
そして最後の望みを呟く。
自分と同じ渇望が、あいつにもあれば良い。と……