Deseo matarle, porque te amo mucho
殺したいほど愛してる。

鏡越しの恋人



2.


「ほんっとにお前って死んでも緊張感も情緒の欠片もない奴だな」とダイニングのテーブルに立てた鏡越しに私に言ってくる。
 面と向かえない以上、2人で話すにはこの方法しかなかった。
 鏡に一緒に映る。
 火村の目線は鏡に映る私の目を見ていて、私の目線は鏡に映る火村を見ている。
 素通りの視線。
 生きている時は意外と高い体温とか、タバコの匂いが微かに残る心地よい火村の匂いとか、感じられたのに、今は温度も感じる事がなければ、タバコの味が微かに残る苦くて甘いキスの味すらも感じる事が出来ない。思い出すだけで泣けてくる。
 『死ぬ』ってこういうことなんだ。
 どんなに傍にいても、触れる事も出来ない。
 
「幽霊になっても泣けるんだな」
「え?」
「泣いてるお前の涙を拭ってやる事も出来ない」
 私は泣いていたのか。
 自分の幽体に触れるのは生きている時となんら代わらずに、質感もある。
 だから自分の目をこすってみると濡れた感触がするが、火村の手は私の顔を通り過ぎる。ちょうど瞳を人差し指で突くような感じになっていた。
「俺、泣いてるんやな。君の目に映ってるんが嬉しいんや」
「あーあー泣くな泣くな」
 火村は鏡に映る私に向かって手をシッシッと振る。
「ああ、すまん」
 流れる涙をとりあえず、拭う。
「で、まあ、お前が成仏していないってことは、この世に未練があるんだよな?」
「うん」
 火村はふんぞり返りながらシャツの胸ポケットからキャメルを取り出し、火をつけた。
「で、お前は自分が殺されたってことも理解してるんだよな?」
「うん」
 煙を吐き出す。
「で、俺の前に化けて出てきた理由は?」
「犯人を見つけて欲しいんや」と、私は火村の前で手を合わせる。頼み事をする時の癖だ。
「『一生のお願い』とか抜かすんじゃねえだろうな?」
「一生のお願いや!」
「一生のお願いって言っても、お前死んでるじゃねえか」
 一生のお願い。既に死んでる人間には関係ない言葉だわな。
「ほな、『見つけてくれへんかったら、死ぬまで取り憑いてやる』ってのはどうや?」
「いい根性してるじゃねえか」と顎をしゃくり人の悪い笑みを浮かべた。どうやら火村特有の余裕を取り戻したようだ。


「お前を殺した犯人は?覚えてるんだろう?」

 長いようで短い沈黙を破ったのは火村。
 鏡に映る私を頬杖ついて見ている。いや、睨んでいるといったほうが、正しい表現だ。まるで、刑事ドラマの取調べ中の刑事のように得も言えぬ迫力で、ドスの効いたバリトンで凄んでいるのだ。

 どうしよう。
 本当のことを言うべきか言わざるべきか…

「幽霊になってまで気絶するのか?」
 どこまでも底意地の悪い男だ。
 
「…ん」
「ん?なんだって?」
 「聞こえません」と言うふうに耳に手を当てる。
「しらん!」 
 もし私が生きていたら、火村の耳を引っ張って、大声で怒鳴りつけているところだ。すぐに、火村の冷たい視線とともに「逆ギレするな」と言い捨てられるのだオチだが。
「それは、犯人が知らない人だとでも言うのか?」
「ちゃう」
 鋭い眼光に射抜かれそうになる(あくまでも鏡越し)私は恐る恐る口を開く。
「覚えてないんや」
「ほう?」冷たい視線が投げかけられる。怜悧な印象を与える火村の視線はどんな人間でも瞬時に凍りつく事ができると思う。しかし、ここは怖気づくところではないので、勢いに任せて死んだ直後の事を伝える。
「気がついたらふわふわ浮かんどったんや」
「ふわふわね」
「ずっと火村の傍にいたんやけどなぁ」
 自分の葬式の間中火村の肩に乗っていたのだ。
「気がついたら、空中に浮かんでいた。か、死んだ直後よりも死ぬ直前の事は覚えていないのか?客が来たということも含めて」
 非常にいいにくい。
 実は、実際のところは、自分が殺される直前、いや、自分が殺される前後30分ぐらいの出来事を全く覚えていないのだ。
 どんな造影機器をもってしても映る事の出来ない灰色の皺の多い(はず)の脳味噌は、何も覚えていなかったのだ。
 気がつけば、自分が頭ぱっくり血だらけで横たわっていて、現実を思い出すまでの間中の事もあまり覚えていない。
 私が正気に戻ったのも、血だらけの私を抱えている火村を目にしたときだ。
「めっちゃ言い難い事なんやけどな」
「なんだ?」
「ぶっちゃけ、覚えてないねん」
「はい?」
「せやから、俺が死ぬ前後の事を全く覚えてないねん。気がついたらこの部屋でお前が俺の名前呼んでて、何度も何度もお前の背中叩いてたんや、けど、お前気がついてくれへんし」
 多分、火村が私を呼んでくれなかったらおそらく私は成仏していたにちがいなく、こうして火村の前にいるはずもないのだ。あらためて考えると、私にとってのこの世の未練は火村なのだと思う。
「ま、おさらいか」と火村が裏が白い広告を出してきた。
 何を書くのかと思うと、タイムテーブルを作り出した。
 死んだ当日の。
 死んだのは金曜日の昼の2時過ぎ。
 火村が3時過ぎに来るはずだったのだ。
「お前が死んだ時間をさかのぼるとするか」
 そう言って、棒グラフのようなものを書き出した。

 午前9時30分頃 起床
  朝食を取り、洗濯をし、出かける準備をする
 午前11時頃 外出 
エトランスホールにて最近入居した大学生(名前は知らない)とすれ違う。証言あり
 午前11時30分 天王寺駅構内の本屋に到着。資料となる本を探す
 午後1時30分頃 外出より戻る
  ここまでは記憶があり。また、目撃証言も得ている(隣室の真野女史)
 午後1時50分頃 来客
  アリスお気に入りのカップ&ソーサが使われている
冷蔵庫にはレアチーズケーキとモンブラン
 午後2時  アリス死亡(出血多量)
ラリックのクリスタル製の灰皿による強打、頭蓋骨陥没骨折、出血多量死。そして、即死
 午後2時55分 死亡確認(火村)

「1時50分から2時55分の約1時間の記憶がないんだな?」
「ん?いや、誰か来たと思う。だけど、曖昧なんや」
 天王寺の駅ビルで買ったケーキを冷蔵庫に収め、いつ火村が来てもいいように珈琲の用意をしていた。
「お前が来たんやと思ってドアを開けたまでは覚えとる」
 鉛筆を握る火村の手が震えている。
「なんや?」と火村の顔を覗き込むとプルプルと目元と口元を引き攣らせている。
「ばかやろう!ストーキングされてるって言うのに、やすやすとドアを開けやがって!お前には警戒心ってものがないのか!」と一括される。
「ストーカーの件が落ち着いてもいねえってのに...」火村は力なく鉛筆を投げた。
「自業自得なんやな・…俺が油断したから俺は殺されたんやな」
 外出する時は誰かと一緒。
 ドアを開けるときはドアスコープで確認してから。
 火村に口をすっぱく言われつづけた事。
「お前の油断が、俺をどん底に突き落としたんだ」
 握りこぶしに火村の無念が伝わってくる。
 
 そうや、俺を恨んでくれ。
 憎んでくれ。
 やけど、壊れんといてくれ。

「で、殺される前後を覚えていないお前としては、部屋の様子なんかは変わっていたのか?」
 幾分顔を引き攣らせながら私を見る。
「茶器を用意してる。けど、使うた形跡はないんよな」
「ああ、紅茶が入っていた」
「カウチテーブルにあったんよな?」
「ああ」
「俺、カウチに用意したことなんかあれへん」
 火村が来るからと用意したティーセットは台所にセットしてあったはず。火村は客やないし、ソファで飲みたかったら自分で運ぶし、運んでもらう。
「入っていた紅茶はなんやった?」
「普通の紅茶だ、それがどうかした」
「いやな、お前が来るって言う事で、アールグレイを用意しとったはずなんや、『普通の紅茶』っていうんかな?」
 強烈とまではいかなくとも、好き嫌いがはっきりと分かれるベルガモットの香り。
「お前の中では普通の紅茶なんだろ」
「せやけど、鑑識では種類出されたやろ?俺は、君にアールグレイを出すつもりやった。冷蔵庫にしまっておいたレアチーズケーキと一緒に」
「ああ、食い損なった奴な」と、軽口を叩いてくれるが、私を見る目が心持潤んで見える。
「鑑識のほうで出たティーカップに残された成分は単なる水だ。客をもてなすつもりじゃなかったようだな」
 鑑識の結果では、私はカップを暖めていたらしい。
 私を殺害した人間をもてなしたわけではないようである。
「俺の為に用意していたんだろう...俺がもう少し早く、早く着いていれば…」
 拳に力を込める。額の前で組み合わされた手が、拳が、震え始めた。
「なあ、こっち見てくれ」
「ん」
「俺が死んだんは、君の所為やないねんで。誰の所為でもあらへん。油断した俺が悪いんやし、犯人の所為で俺は死んだんや。やけど、一番の責任は俺なんや、覚えといて、忘れんといてや」
 もし、この手がひむらのに触れる事ができるのであれば、私の手は火村のかををつかみ、口付けているのだ。だが、火村の視線は私の顔を過ぎる。後ろに見える鏡に映っている私の後頭部を見ているのだ。
「まっすぐ見たい。お前の眼差しが凄く恋しい」
 私が映っている鏡に私の頬あたりを人差し指でなぞる火村。
 人差し指は唇あたりで止まる。
 グロテスクな場面である。
 鏡に映っている私はあくまでも「エクトプラズマ」で、実態はない。そして、私の顔を突き抜けているようにして火村の手が見える。唇あたりをなぞっていても、火村の手しか映っていないのだ。
「おれも、お前に触れられたい。触れたい」
 その憎まれ口しか叩かない火村の唇に触れたい。

 すまん。

 火村。


to be continued...

 

 

 

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