parfum de l'autre personne



 あいつはいつも仄かに香る程度に女物の香りを身に付けている。
 所謂残り香・移り香。
 俺が誕生日プレゼントにやったトワレの匂いなんかさせていたことが無い。
 あいつから漂ってくる香りはいつも女の匂いだ。
 マスキュランな香りは似合いすぎて自分を暑苦しくさせ、また人に与える印象も押し付けがましくなるから丁度いいじゃないか。そう笑っていた。
 このバーのマスターに言わせると「恋人にやきもち焼かせたいんだよ」とのこと。
 
 俺が渡したトワレは暑苦しいのか。
 なら、返せ。

 そう詰め寄った俺に対してあいつは「やだね」とそっぽ向きやがった。

 俺がもらったものだ。誰が返すもんか。
 勿体無い。

 使わないんだったらいいじゃないか!
 かえせよ!

 会うたびに女物の香水のにおいをさせてくる。

 職場の女の子の移り香。
 遊びで吹き付けられた。
 取引先の女性管理職の移り香。
 
 あからさまな言い訳。
 繰り返される嘘。
 浮気とか
 浮気とか
 浮気?
 いや、そもそも、俺と付き合っていたこと自体が浮気かもな。
 もともとノンケだし。
 彼女いてたし。
 あーいう男だって分かってたはずじゃないか。
 二股三股は当たり前だって言ってたし(本人が)、くるもの拒まず、去るものも追わない。って豪語してしな。
 問い詰める気力も無ければ、資格もねえや。
 はなからあきらめてたんだし。

 カウンターに突っ伏しグラスで遊んでいると、バーのマスコットボーイの和さんが優しい声で声をかけてくれた。
 耳が不自由だといわれていたが、最近調子がよいらしく、話すことも無理なく出来るようになり、音楽も聴けるようになったとのこと。
「どうしたんですか」
 さりげなく、つまみを足してくれた。
「んー、落ち込み中」
 つまみの入っている皿を人差し指でかき混ぜる。
 ミックスナッツのジャイアントコーンを探しているのだ。
「あ、瓜生さんにはこれでしたよね」といってジャイアントコーンだけを足してくれた。
「ありがと」
 バー『Artemisia Absintheum』は落ち着いた雰囲気で、口コミのみの隠れ家バーである。
 落ち着いた雰囲気のアンティークなオークのカウンターにすわり心地の良いススツール。 静かに流れるJAZZやクラシック。
 アンティークの多分有名なアールデコの茸のようなスタンド。
 時間が少しだけゆっくりと流れる空間。
 毎週ではないけども、バーのマスターやバーテンの和さんに名前を覚えてもらい、「いつもの」と注文が出来るぐらいにはなった。

 かららん

 軽やかにドアのカウベルが鳴り響いた。
「あ、いたいた」
 俺を見たと同時に隣に座ってきた。
 けたたましく登場してきたのは俺の悩みの種だ。
 またも、甘いにおいを撒き散らしている。
「んだよ」
 てめえの顔なんざ見たくねぇんだよ。そう思って顔を突っ伏したまま背けた。
「うまい酒が一気にまずくなった」
「そう?俺は今からうまい酒を飲むぜ」
 どうぞ勝手に。
 
 隣に座るなよ。 
 
 言うのも面倒くさいので、違う席に移ろうとしたら腕をつかまれた。

「今日こそ不機嫌の理由を聞くぞ」

 聞くも何も考えるまでも無いだろうが。
 普段の俺なら「てめえの胸に手を当てて考えてみな」とか言うんだろうけど、もうどうでもいい。
 「うっとしい」と視線で投げつけ、手を振り払った。
 今日の相手は年上マダムらしい。
 甘くバニラとビャクダンのにおいがする。
 お水なおねーちゃんの匂いだ。
 うちのおかんが出かけるときに付けるあの匂いと一緒だ。
 けばい女の匂いだ。
「理由なんてねえよ、いつもと同じだろう?」
 違うスツールに腰掛けなおした。
「あ、スコッチ。ロックで」 
 
 あーあ、酒がまずい。
 あ、飲みすぎか。
 二日酔い決定だな。
 まあ、いいか。
 有給取っちゃえ。
 消化できてない有給溜まってるし。
 
「飲みすぎか?」

 お前と話す口はありません。

「いつものようにストレートで煽ってるんだろう」
 
 お前には一切関係ありません。

「和さん、お変わり」
 空になったグラスを差し出してバーボンを入れてもらう。

「瓜生!」
 
 うるさいな。
 俺がどんな飲み方しようが勝手だろうが。

「和さん、こいつ何倍目?」

 何でお前にそんなことまで管理されなくちゃいけない。
 関係ないだろうが。
 
「飲みすぎ。週末でもないのに」
 
 だからお前には関係ないだろう?
 いいんだよ、俺は明日は有給だ。
 溜まった有給を二日酔いで過ごすんだよ。

 家で飲みなおそう。帰りに酒買って帰ろう。
 今ならまだ店も開いてるだろうし。

「和さん、勘定お願い」
「待てよ、お前の言い訳を聞きたいんだよ。その不機嫌な理由のな」
 腕をつかみ俺ににらみを利かす。
 顔のいい奴が凄むとほんとにぞくって来るが、今や、どうでもいい男だし、酔っているおかげで恐怖感なんてどっかいっちゃってるかも。
「関係ねえな」
 腕を回して、あいつの手を振り解く。
 痛ぇじゃねえか。
「関係あるだろう」
「さわんなよ」
「こんなとこで言い合いさせるのか?」
「させようとしているのはお前だろう」
 この甘ったるい匂いから開放してくれ。
「場所を変えようか?」
「ざけんな」
 そんな匂い。
 一緒に居たくもねえ。
「なら座れ」
 偉そうに。
 もう、関わりたくないんだよ。
 釣りはいらないから。
 そういって5000円を置いて足早に立ち去ろうとした。
 
 吐きそうだ。

 吐く。

 俺は口を押さえて店の奥にある手洗いに駆け込んだ。
 扉を開け、便器めがけて突進。
 我慢できねえ。

 うえ…

 げほ…

 俺は便器に顔を突っ込んでいる。

 質の良い大理石の床に、きれいに掃除された上等な陶器の便器。
 良かった、駅の汚ねぇ便所とかじゃなくて。

 フラッシュすると水流が渦を巻きながら吐き出したものを一掃してくれた。 
 このまま、俺もこん中に消えてしまえればいいのに。
 
 それからしばらく俺は便器を抱えるようにして、出せるものはこれ異常ないって程か吐いた。 
 俺は少しだけ落ち着いてきた。
 多分、家までは持つ。
 
「瓜生、大丈夫か」
 
 トイレから出てきた俺を迎えたのは顔も見たくない奴。

 う…

 俺は再び便器に逆戻り。

「おい!」
 俺の背中をさすってくる。
「さわんなよ」
 マジで、顔も見たくねえ。

「瓜生さん、タクシーお呼びしましょうか」
「頼む・・・」そうしてくれ。
 洗面所の鏡に映る俺は真っ白。
 ああ、こりゃやばいな。
「送るよ」
 奴俺の背中をさすりながらつぶやく。
「いらん」
「そんなになってまで意地はるな!」
 こいつがどんなに声を上げても俺の耳には素通りだ。
 なんかわめいているとしか聞こえない。
「お前と同じ空間には居たくない」
「だからその理由…」
「くせえんだよ」
 吐き気催すほどにな。
 俺に触れ酔うとする手をはたく。
「さわるな」
「な」
「近寄んな」
「おい」
「俺の嗅覚感知範囲に入ってくるな!てめえと同じ空気吸いたくねえんだよ!ばーか」

 ああ、くせえ。

 俺のガキのような捨て台詞に呆然とするアホを残し、俺はタクシーの到着を待たずに店の外へ出た。
 まず、表通りに出なくてはタクシーを捕まえることは出来ない。
 まあ、その間にちったあ吐き気もおさまるだろう。

 まじで、清算したほうがいいよな。
 明日休んでじっくり考えよう。
 じっくり考えるまでも無いか。

 ああ、最後に一発ぐらい殴っとけば良かったな。

 
 アパートの前について鍵を探っていると、声をかけられた。
 
「あんだよ。言わなかったっけ?俺の嗅覚感知範囲に近寄んなってな」
 俺を上から腕を組んで鋭い目つきで見下ろしている。
 仁王立ちをしている邪魔な男の脇をかいくぐり、鍵をあけようとする。
「話をしよう。な?瓜生」
 扉を閉めようとすると、奴が足を挟ませて閉められないようにした。
 酔っ払って、胃の中がすっからかんの俺に奴の力に抗う余裕もあるはずも無く、ドアはいとも簡単に開け放たれてしまった。
 俺を軽々と抱え上げ、部屋に上がる。
「さすがの俺もこうまで頑なな態度を取られるとな!」
 大声で怒鳴るが、力なくふすまにもたれている気力の会い俺には「馬の耳に念仏」の如し意味を成さない。
「話すことなんて無いから、この荷物全部持って帰ってくれ」
 ふすまを開け、押入れからまとめていた奴の荷物が入った2つの青いゴミ袋を取り出して投げつけた。
 俺の部屋に置いていたすべてをまとめた。
 服、下着、歯ブラシ。
 酒のボトル。
 借りていたCD。
 海外出張のお土産にもらったクリスタルの文鎮。
 指輪は恥ずかしいから「時計な?」といってよこした唯一の高級腕時計。
 この部屋であいつが使っていたものすべて。
 そのすべて。
「瓜生…」
「俺、もう我慢できない…勘弁してくれ」
 呆然とする奴を突き飛ばすように厳寒に向かわせた。
「お前ん家にある俺のものは全部捨ててくれていいから」
 
 吐きそうだ。
 吐くものは無いのに。
 
「瓜生……」
 
 何でお前がそんな声を出す。
 いい様に扱われていた俺だろう?
 餌さえ与えておけば尻尾振って寄ってくると思ってんだろう?

「出て行ってくれ」

 吐きそう。

「出てけっ!」

 その場を離れようとしない男の腕をつかみ、火事場のくぞ力、いや、馬鹿力で玄関に追いやり、突き飛ばし、靴を奴めがけて投げつけた。
 呆然とする奴を締め出してほっとした。

 ドアの向こうではがさがさとゴミ袋の音がしていたが、やがて階段を下りていく音と共に気配が無くなった。
 俺は、部屋に充満する匂いを追い出すために窓を開け放ち、クッションで仰ぎまくる。

 くさい。いらない。
 くさい。いらない。
 くさい。くさい。

 電話のベルが鳴り響く。
 俺の部屋には電話は携帯電話のみ。
 実家で使っていた黒電話の音が好きだったから着信音はけたたましく鳴り響く電話のベル。それも、あいつ限定。
 今日で最後かな。
 いいや、うざいから。
 消してしまえ。
 携帯電話のメモリを消した。
 短縮1番も同時に消滅。
 着信履歴から名前が消えて、番号だけになった。
 改めて考えると、これだけの繋がりだったんだな。と。
 
 携帯電話はずっと鳴り続けていたが、何回かの呼び出し音の後すぐに留守番電話サービスに繋がる。
 伝言メモは3件とも入っている。
 とりあえず削除。
 伝言ダイアルサービスも解除しておかなきゃな。
 料金がバカにならん。
 
 そして解除の番号。

 電源を落とした。

 部屋の中がすっかり冷え切り、残り香も消えた頃にやっと俺は一心地つくことが出来た。
 もう、振り回されなくて済む。
 この吐き気ともおさらばできる。

 やっと。
 


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