parfum de l'autre personne





 
 そして、俺が奴との連絡を絶ってから1週間。
 バー『Artemisia Absinthum』のドアを開けた。
 相変わらず落ち着いた雰囲気で、あんな醜態を晒した俺は恥ずかしかったけど、奴と鉢合わせするかもしれないと思っていたけども、やはり落ち着いて酒が飲める店はここしか知らなかった。
「先日は、すいませんでした」
 ややこしい客のはずなのにバーテンダーの和さんは、「いえいえ」とやさしい穏やかな笑顔をくれた。
「いつもの」
「かしこまりました」
「あ、水割りで…」
「かしこまりました」
 しばらくの沈黙の後、和さんがバーボン水割りを俺の前においてくれた。
「心配されてました。僕も心配でした」
 やっぱりなあ。
「ふうん」
 でも関係ないな。
 別れたんだから。

 ……

 別れた?

「どうかしました?」
 怪訝な顔で俺の顔を覗き込む和さん。 

 そうか。
「別れよう」って言ってなかったんだ。
 大事な言葉を忘れてたよ。
 まだ残ってたよ。お前のもの。
『未練』
 
 ぼんやりと考えていると、和さんがまるで独り言のようにつぶやいた。
「えーと、あのお客様、なんておっしゃいましたっけ?うーん。」
 和さんが腕を組んで考え込む。
「名前?」
「ええ」
「いいよもう関係ないから」
「いえ、一昨日こちらにお見えになられまして、伝言を承ったのですが、どうも、転勤で海外に行かれるようです。『忘れ物があるから木曜日の10時にこの店で』とのことです」
 忘れ物か。
 俺もある。
「木曜日の10時って、き、き、今日?」
 何日の木曜日とは聞いていない。
「そうかもしれません」
 帰ろう。
 
 いや。
 忘れ物を渡すべきなのか。

 俺の中のあいつの忘れ物を渡すために。

 アホだ俺。

 何してるんだろうなあ。

 アホ過ぎる。

 はなから分かってたじゃないか。あいつが節操なしだってことぐらい。
 来る者拒まず。
 
 あんな奴に何やきもきしてたんだろうなあ。

 それでも良いって言ったの俺のほうなのに。

 ああ、これが未練なんだ。
 最後の最後まで「別れよう」「もう会わない」って言えなかった俺の。
 
 ああ、でも奴が海外転勤だって言うなら、ちょうどいいじゃないか。
 俺は考えながら、カウンターにあごを置くような形でぶつぶつ独り言を呟いていた。
 まだしらふだけど、多分ほかの人間が見たら完全な酔っ払い。
 
「電話にも出ない。会社に連絡しても取次ぎしてもらえない。で、こんなところで溶けている」
 何だよ。
「今日こそ話し合いをしよう。マスターに頼んで奥の部屋借りた」
 何だよその手際のよさ。
 なんとなしに奴を睨み付ける。
「たのむよ」
 そういって困ったような笑いを俺に向けた。
 今日は匂いがしない。
 甘い匂いがしない。



 カウンター席の奥にVIPルームのような空間がある。
 上質のソファセットが置かれた落ち着いた部屋。
 一人がけのソファに奴は座る。
 憎たらしいぐらいにこういう場所が似合う男である。
 長い足を投げ出すかのように座る。
「すわれよ」
 さっき「たのむよ」と人に頼んでおきながらも態度は至極尊大である。
 悪いことなんてしてないのに、何で俺がしかられた子供のようにならなくちゃならねんだよ。
 ぶつぶつと独り言を言いながら俺はラブソファーの端のほうに座った。
 あいつはただ憮然と俺の前にいる。
 何をするでもなく、俺を見たり、ライターの火をつけたり、消したり。
 
 かしゃん。
 ぽ。
 かしゅ
 ぽ。 
 かしゅ
 ぽ。

 静かな空間にオイルライターをもてあそぶ音が響く。
 沈黙が許せなくて、つい俺のほうから口を開いてしまった。 
「海外転勤なんだってな」
 視線を合わせないように、とりあえずふんぞり返ってみた。
「ああ」
 両手をくみ、伸びをする。手持ち無沙汰。
「エリートーコースじゃないか」
 なんてことの無いように話す。
「なあ…」
「なんだよ」
 顔は絶対に見ない。
「2年間…待ってほしい」
 この時間が早く過ぎればいいと思っていると、奴の口からは意外な言葉が発せられた。
「は?」
 なんですと?
「ばっ」か言ってんじゃねえよ。
「おれ、我慢できないって言ったよな?」
 信じらんねえ。
「でも、それは『別れよう』という意味ではないよな」
 気づいてやがる。
 俺の忘れ物。
 でも、それも今日返す。
「別れる。金輪際お前とは関わりあいたくない」
「俺の顔見て言いやがれ」
「ああ、言ってやるとも、何回でも!」
 売り言葉に買い言葉とはまさにこのこと。
 睨み付けた。
「うんざりなんだよ!」
 俺はソファの肘掛をきつく握り、唇をかみ締めた。
「散々我慢してきた。せやのに、2年間待っとけ?ふざけんな!」
 立ち上がり、あいつを睨みつけた。
 超能力なんかがあって、睨みつけただけで穴が開けば良いのにと思う。
「せやから別れる!別れたる!別れてやる!会わへん!一生顔見とうないっ!これで高校からの腐れ縁も解消や!」
 言ってやった。
「これでええやろ」
 奴はそれでも俺を見透かしたように笑う。
「関西弁」
 立ち上がり、俺の頬に手を添える。
「泣きながら言う言葉じゃないだろ?」
 言われて気がついた。
 俺、泣いてる。
「俺、お前の最近の不機嫌の理由、知ってた」
 親指で俺の涙をぬぐう。
「不機嫌になるぐらいならぶつけてくれりゃ、俺も理由も言えた」
「理由?言い訳の間違いだろ」
「まあ、そうともいうかな」
 悪びれない男。
「振り回して楽しかったか」
「最初は」
「なっ…」
 どこまであつかましいんだ。
「好きな人に妬かれてうれしくない男なんていないよ」
 奴の手を叩き落とす。
「じゃあ、確信犯だったんだな。面白いもん見れてよかったな。でももう、見納めだ」
「最初はお前がやいてくれるのがうれしかったよ、言葉はなくとも、態度が示していた。けどな、段々お前の顔色も変わらなくなった」
「あたりまえだろう」
 とっかえひっかえ女を作り、俺をその現場に遭遇させるように演出する。
 マンションをに行くと玄関には女物の靴。
 靴が無くてもソファに残る長い髪の毛。
 ベッドのには残り香。
 奴の愛車の助手席に転がっていた有名高級ブランドのロゴマークのイヤリング。
 あからさまに見せ付けられて俺が立ち直れるとでも?
 そんなに単純な人間だと思われていたのか。
「素直になってくれなかった。俺の襟ぐりつかんででも白状させるなり、殴りつけるなり出来たんじゃないか。だけど、お前は何もしなかった。見ない振り、知らない振り。いつもなんてことないって感じに振舞っていた」
 出来るかアホ。
 女みたいにぎゃーぎゃーわめけばよかったのか?
 もともとノンケで、俺が頼み拝んで返事をくれた相手だけに、強要なんて出来るわけ無いだろう。
 それでなくても、モテる男なのだから。
「女が俺を捨て置かないとでもいうんだろう」
 もう俺じゃなくて良いじゃないか。
 出来れば俺から告白したことを撤回したいよ。
「まあ、そうだな。女だけじゃないけど」
 いけしゃーしゃーと。
「ふん」
「瓜生…」
「言いだしっぺの俺が言うのもアレだけどな、女にしとけ。悪いことは言わん。そのまま軌道修正して元にもどれ。悪い夢見たんやと思てな?」
 俺は流れ出る涙を手の甲で拭う。
 ああ、鼻水もだ。
 奴は丁寧にもきれいにプレスされていたハンカチを俺に差し出すが、払いのけると、無理やりに俺の鼻をぬぐう。
 こういうところはやさしい。
 さりげなくやさしい。
「瓜生も知ってる通り、俺は自他共に認めるこましだった」
「だった?過去形かい!」
 俺が突っ込みを入れると、奴はなぜか悲しそうに笑うのだ。
「男はお前が初めてだったんだよ」
 そんな奴の言葉に俺は返事の仕様が無い。
「そ、そうか。わるかったなあ、道踏み外させて」
 俺は生粋とまでは行かないが、気がつきゃこの道一直線だったからなあ。
 ある意味挫折は知らん。
 ことさら、恋愛関係を築くにも諦めはついている。
 色々とシュミレーションして、希望はなるべく抱かないようにしていた。特にノンケの男にほれた場合は。
「俺よりも華奢であってもお前は男だ。可愛いと分類されても男だ」
「押忍!」当たり前だ。
「こんなときに洒落かよ。まあいい。どこをどう見てもお前は男だ」
 俺は胸をさすってみてその後、股間を指差した。
「ちんちんついてるからな」
 悪態つきっぱなし。
 さっきまで泣いてたんだ。
 これでも。
「正直最初は好奇心だった。同性でも抱けるんだっていう類の。気がつけば女相手に起たなくなっててな。それからしばらくあのときのお前の顔とか浮かべたら不思議と出来たよ。誰とだって出来たんだ。そう思うと自分が情けなくってな。ようは俺はお前のこと見下げてたんだよ。『可愛そうなホモに愛を』ってな」
 奴はソファに座り、俺を見上げた。 
 ホモだって。
「20云年積み上げてきた俺のアイデンティティが崩壊したよ。『あ、俺、いんぽになっちゃった』って情けねえよな」
 ため息混じりに呟くように話をする。
「どんなに魅力的な女をとっかえひっかえしてもたたねえし、お前じゃないと起たないようになった。病院にいこうかとまで思ったさ」
 立ち尽くす俺の手を取り、切なそうに見つめる。
「お前、それを実証してたのか?」
「ここ数日は人のこと無視したおすし、話もさせてくれない。ほかの奴で試そうとしたけど、役に立たなかった。で、前はやきもきするお前を見て優越感に浸ってたんだよ。『可愛そうなホモの友人に愛を』だ。やさしくも俺が抱いてやっているんだと。だが、段々と俺がお前の話す言葉一言一句に一挙手一投足に気になり始めた。どこを見ても何をしてもお前しか目に入らないんだよ。『別れる』っていうんなら俺の気持ち返してくれ」
 俺の手の指先に口付けをする。
「なん、な、、な、、」
 奴の自分勝手な告白に俺は口をパクパクさせることしか出来なかった。「ほかの奴で試そう」って…それを出来心の浮気心って言うんじゃないか。情けなくなってきた。
「金魚みたいだな」
 あいた口が塞がらないとはこのことだ。と言いたかったが思うように口が動いてくれない。
「言い訳をすると、女の匂いをさせてたのはほとんど仕事関係だ。女の上司のつける香水。接待で使う店の女の子の匂い。同僚の香水の匂い。後輩に言われたけど、マーキングされてるんだって」
「マーキング?」
「ああ、世間的にはお前との関係はおおっぴらにしてないよな。だから必然的に俺の立場はフリーなんだよ。引く手あまたのこの俺がフリー」
 ああもういちいちにむかつく言い回しをする。
「俺に気がある女性たちはこぞってマーキングをするんだ。このところのひどい匂いはそれが原因だ」
 職場のきれいどころのお姉ぇー様方に囲まれてでれでれしている顔が浮かぶ。
「お前がくれたトワレの香りなんかすぐに消えちまう。気に入ってたのにな」
「使ってくれてたんだ?」
「使い切った」
「え?」
「で、自分で同じものをまた買った」
 使ってくれてたんだ… 
「着けるたびにうれしそうに照れるお前の顔が浮かんでくるんだよ。だけど、奴らの匂いに負けちまう」
「お前なりに俺にマーキングしてくれてたんだよな?」
 何でそこまで気がついてるんならもっと、フォローしてくんないんだろ。
「なんにせよ、俺もうしんどい」
 誤解が解かれてもこの先ついて回る現実だ。
 こいつがもてるということには変わらないし。
「挙句の果てに2年間待てという。俺にはもう限界だよ」
 胃に穴が開かないのが不思議なくらい。 
「あのな?本当は引っ張ってでも、スーツケースに押し込んでつれて行きたいさ。だけど、お前にも「仕事」というものがあるから一緒に来てくれなんて言えない。それにいんぽな俺は浮気なんて出来ないだろうし、する気も無い。信じられなくてもいい。人のこといえる立場じゃないからな。だから、お前が俺を縛り付けてほしいんだよ。しっかり『俺のモンだ」って言う証拠をくれ」
「インポを俺のせいだっていうのか?しるかよ。その上お前が俺の物だって言う証拠?あるわけ無いだろ」
 今まで俺のものだったことなんて無いくせに。
「俺だってお前に余計な虫を付けたくないんだよ。だからお前も俺に虫除けを施せ」
 そう言ってスーツの上着の内ポケットから取り出したのは小さな黒い箱。
「いや、もう、待つのもいや。むしろほかの虫がついてほしいよ」
「瓜生…」差し出した小箱を俺は押し戻した。
「いい機会や、これを機に終ろ?お前はもともとノンケや、若気のいたりやってん。気の迷いやってん。だからな、俺も忘れる。そのうちインポも直る」
「勝手な…」
 眉間にしわ寄せ、口元を引きつらせている。
「勝手なんは重々承知や。お互い様やろ?お前とのことで俺も十分に勉強したわ。男前には気をつける。女に囲まれて喜ぶような男にも気をつける。誰にでも優しい男にも気をつける。口がうまい男にも気をつける。ノンケには間違えても告白なんかせん」
「嫌味かよ」
「これでお前も心置きなく女の子を口説けるやろ?ナンパもし放題、逆ナンもされ放題や。あっち行きゃ、ブロンド美人とかグラマーな姉ちゃんが…わんさかいてる。何もこんな色気の無い男に血迷う必要もなくなるんや、軌道修正や、元いた場所に戻るだけや」
「もう、いい」
 俺の顔を鋭い目で睨み付ける。
「俺は今までお前に対して管理不誠実だったことは認めよう。だけど、今はお前に対してどこの誰よりも誠実でいたいと思っている」
 俺は何もいうことが無い。
 奴が真顔で言っていることに頷けない。
 信じていいのかも分からない。
「おそい」
 遅すぎる。
 握り締める拳に力がこもる。
「お前がここまで意固地にならざるを得なかったのは俺のせいだな」
 握り締めていた俺のこぶしをゆっくりと解いていく。
「俺に告白してくれたときだけが素直で可愛いお前だった。それを俺が最初で最後にしてしまったんだな。分かってたはずなのにな、お前が意地っ張りだってことぐらい」
 俺はもうこいつ相手に素直にも可愛くも出来なくなっている。分厚い殻で覆われていて、自分で壊すことも出来ない。
「終わりやな。もう話することも無いな。元気でな」
 殻に覆われている気持ちは自分でも自覚している。
「瓜生…」
 もう、どんな顔しているのかさえ分からない。
 俺も大概情けない顔してるはず。
 
 あ〜あ、女々しいな俺。

「瓜生さん、タクシーお呼びしましょうか?」
 バーテンの和さんが穏やかな声で言ってくれたが、俺には余裕なんてこれっぽっちもなく、突っ慳貪な返事しか出来なかった。
「いい、歩いて帰るから」
「かしこまりました。お気をつけて…」
「うん、今度ゆっくり飲ましてもらうね…」
 本当ならこんな醜態晒してしまっては店に来辛くなるはずが、なぜかまた来てしまう。だから来週も俺はこの店のカウンターに座っているのだ。
「ええ、お待ちしております」
 相手に安心感を与える柔らかな笑顔を声。
 俺もこの人ぐらいにきれいだったら…
「じゃ、うるさくしてごめんなさい」
 軽やかになるカウベルに見送られて店を出た。
 それから自分でどうやって帰ったのか覚えていない。
 気がつけば自分の部屋にいて。
 電気もつけずに立ち尽くしていた。
 携帯が鳴りだすまで。




続く。  

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