Winter Comes Around



2.


  近年まれに見る大寒波の襲来で、漢江は厚い氷に覆われ、路面の凍った道路では車の追突事故が絶えなかったソウル市内。
  2、3日前までは大寒波に町も凍っていたらしいが、多少なりとも気温は高くなり、ソウルを南北に分ける漢江にはところどこに見える氷の塊だけだった。
  大河川であるが、その川原はひどく殺風景である。日本であれば、大河川のかわらには野球場や、テニスコート、ジョギングコースだったり、バーベーキュースポットがあったりと、公園として機能していたりするが、ソウルではこの大きな川の川原は何もなく、防波堤沿いにはコイル状の鉄条網と200メートル間隔で小屋が建てられていた。
  北の侵略煮警戒していることが窺える。日本にはない緊張感を意識させられる空気。
  国境まで2時間程度という距離に首都がおかれているためか、街の端々に警官や自動操銃を構えた兵士を見受けることが出来る。
  ホテル到着までのツアーを同行し、ホテルでの夕食後から別行動することになった。
  バスに乗り込むと、添乗員からは明日からのスケジュールに役立つようにと、簡単なガイドブックとアドバイスをもらいうけた。
  付箋が貼られているページを見ると明洞と東大門市場付近とDMZ、板門店の案内ページだった。
  『日本では考えられない国境の緊迫』と板門店とDMZについて記述され、ツアー内容と料金などが紹介されていた。
「とりあえず参加してみようかな?現地申し込み可能なのかな」
「聞いてみてあげましょうか?」
  親切な添乗員は携帯電話を取り出し、電話を掛け始めた。
  韓国人の話し方は関西弁に通じる感じと、けたたましく畳み掛けるように話すマシンガントーク。だが、香港の人たちより幾分耳になじみやすいや悪しい響きがあると圭は心の中で笑った。
「まだ間に合うツアーもあるようですよ」携帯電話のマイクを塞ぐコンダクターの口から明るい知らせ。
「あ、そうなんだ」
「どれがご希望ですか?」と聞かれ、圭はガイドブックのページを開いて見せた。
「映画みたことあるから、これかな?」
「ああ、あの映画ね、それだったらこのコースなんかいいかも。お昼もついてますしね」
「じゃあ、その板門店ツアーでお願いします」
「で、早速なんですが、ツアーの申し込みがLホテル内にある旅行センターなんですよ、7時まで受付してくれるので、後ほど明洞(ミョンドン)に行く時にご案内しますよ。あ、ちなみに料金は日本円でも可能だそうですよ」
「有難うございます」
「板門店は是非行かれるといいです。日本ではまず経験できませんからね」
  確かに日本では経験できないな。目で見える国境なんて。と圭は笑う。
「吉野さん、お部屋ですが、勝手ながらシングルのお部屋に変更させていただきました」
  なんとも微妙な配慮に圭は笑うしかなかった。
  正直ダブルでも良かったんだけど。と思ってはいたが、添乗員なりに気を配ってくれたことに感謝をしなくては。

 圭たちが宿泊するホテルは世界でも有名な高級ホテルで、ソウルでもっとも新しいホテルである。
  新婚を意識した部屋などもあり、かなり高級感をかもし出している。
  ホテルに到着し、ロビーで添乗員からの注意事項と今後の予定などについて説明を請け、部屋の鍵を受け取る。
  臙脂に金字でホテル名が印刷されているカードキーと3日分の朝食券を受け取った。
「ここの朝食は評判なのよ。ご一緒できるといいわね」と上品な老婦人が圭に話しかけてくる。
  娘らしき女性と圭の前のソファに座っている。娘は儚げな印象でこのツアーの副題にもある韓国ドラマのヒロインになんとなく似ていた。
「この後のご予定などは決まっているのかしら?」
「あ、いや、特には。この後のミョンドンに向うついでに近くの旅行センターで明日のツアーを申し込む予定ではありますが」
「夕食はご一緒できるのですね?」
「せっかくのご馳走ですから」と当たり障りのない笑顔を返す。
  品のよい感じが伺える親子と一緒だったらあまり何も言われないだろうと圭はそう考えた。
  ミーハーな女性たちはひとりで参加している圭を好奇の目を向け、隙あらば話題提供者として格好の餌食しようとしていた。
「楽しみにしておきますわね」と婦人は笑う。
  色白で、小柄で上品なサーモンピンクのツーピースが似合っている。娘も流行を押さえてはいるが、華美にならず上品にスカーフを襟元にあしらい黒のパンツとニットでキャメルのロングコートを膝に置いていた。
  早めにチェックインし、ミョンドンに出て夕食を食べに行く。ミョンドンではある程度の自由行動ということで圭はLホテルの旅行センターに行くことにした。
 
 
  団体で繁華街を歩くのは非常に恥ずかしい。
  圭は旅行センターに行くのを口実にレストランに直行すると添乗員に伝えた。
「ソウルで一番格式あるホテルかぁ。日本じゃお菓子やさんなのに」  
  日本では製菓会社として有名な会社がソウルでは韓国一の財閥としてリゾート開発やさまざまな事業を展開している。
  確かオプションの観光コースにもテーマパークが組み込まれていたはずだったなとガイドブックを広げた。
  失明する薄幸のヒロインと金持ちボンボンの話の舞台の一つになったテーマパーク。
「なるほどね」
  確か彼女が必死になって見ていたドラマの一つだったかな。
  圭はフロントデスク横にいるコンシェルジュの前に立った。
  何しろ慣れないハングルは目を疲れさせる。
  中国語だったらまだしも、四角と線で表現されたハングルは記号としか目に入ってこない。英語の表記もあるがそれとて発音しにくく、なかなか思うように地名を言うことが出来ない。
  圭はコンシェルジュに訪ねるのに英語がいいか日本語がいいか戸惑ったが、口から出たのは「すいません・・・」という日本語でコンシェルジュは「はい」と日本語で微笑んだ。
  胸元の名札を見ると日本名で、圭はどことなくほっとした。
「スターツアーズという旅行センターを探しているのですが」
「この建物にございます。目の前のエスカレーターをご利用になられまして、3階のブティック街を北に抜けたところにございますよ。営業時間がもうすぐ終わりですので、迷われるといけませんから、一人案内をよこしますね」
「あ、いや、そこまで。このホテルに宿泊しているわけじゃないので…」
「いえいえ、当ホテルに立ち寄られた方すべてが当ホテルにとってのお客様ですよ」と慇懃無礼に微笑むコンシェルジュ。
  いいホテルは懐が深い。などと圭は笑顔をこぼす。
  若いホテルのスタッフが圭を案内してくれた。
  名札には『Yun』とかかれており、日本語を勉強中とのこと。
  意外と韓国の人はフランクなんだなと圭は思った。ステレオタイプの親に育てられ、韓国を未だに【朝鮮】や、【半島の人たち】などと乱暴なたとえを使う母親だった。

 圭が小学高学年の頃に在日韓国人の友人を家に招いた。そのときに母親のあからさまな態度の豹変振りを目の当たりにし、母親の偏見の強さを知らされた。
  友人が帰ってから母親は「友達を選びなさい」と言い放ち、圭を落ち込ませた。その友人は名字こそ韓国系ではあったが普通の日本人だった。話す言葉も同じ。姿形も同じ。成績も良かったし性格も申し分ないくらい、自分にとって非の打ち所のない友人だった。
  「友達をえらべ」という母親の言葉に圭は得も言われぬ憤りを感じ、それ以来、家に友人を招くことを止めた。学校の話をすることも止めた。友達を偏見に凝り固まった母親に品定めされたくないということと、自由に友達を作りたかった。親の意に反して圭は彼とはずっと友達でいた。
  学歴重視の母親は圭を有名私立中学に入学させたがっていたが、友人のたくさんいる公立中学への進学を望み、頑なに母親の敷いたレールの上を走るのを拒んだ。その結果、圭の望みどおりに公立中学へ進み、高校受験の際には同じように母親が望む名門の男子校への進学を蹴り、高専に進学すると決めた。父親は歓迎してくれたが、母親は進学校へ進み、大学進学を強く望んでいた。
  圭のことが発端になっていたのかどうかは定かではないが、父親は圭が高専を卒業し就職を決めたときに離婚を決意した。もとより上昇志向の強い母に父の心の拠り所はなく、父親は母親に離婚届と一緒に二〇年かかって積み立てた預金通帳と印鑑と、家の登記所など権利を渡した。
  圭に「すまない」と詫びる父。
  父に離婚届を突きつけられた母親は半狂乱になり「私の二〇年間を返してよ」と当り散らしたが、父親の言い分のほうが強かった。
  人よりいい暮らし。
  見目のいい旦那。
  妻の自由になる旦那とお金。
  彼女の虚栄心を満たすには程よい条件の男だったのだ。
  父親が母親に残した言葉は「もう十分だろう?」だった。
  二〇歳前ではあるが、圭をお前に渡すつもりはないと言い放ち、慣れ親しんだ家を離れる準備をした。一人では広すぎるぐらいの家に母親を捨ててきたのだ。20年寄り添った妻に対しては残酷な仕打ちだったかもしれないが、
  父が用意した新しい住まいは静かな住宅地に佇む店舗を備えた家だった。前の家に比べると幾分かは小さいが住み易そうな家だった。外資系の注文住宅で、趣はロッジ風。中に足を踏み込むと今までの家にはない温もりがあった。
  母親に隠れて過ごしていたという家。
  圭にも話したことがないという絵画の趣味。
「小さいけど、喫茶店をやってみようかと思うんだ」父親は笑った。
「悪いな、お前に残せるのはこの小さな家になってしまった」と笑う父親の顔は晴れ晴れとしていた。
  今回の結婚騒動についても父親「やっぱり俺の子だよなあ。おんなじ様な女に引っかかるんだもんなぁ」と小さく笑うだけだった。

 圭の父親は好きな人と好きなものに囲まれて穏やかに暮らしている。
  その後の母親は圭も父親も知らなかったが、母親の実家の方から再婚したとの連絡があり、残してきた家も処分したようだった。
「まったく切り替えが早い」
  そう言った父親の顔には安堵の表情が浮かんでいたのを圭は見逃さなかった。
 

「吉野様」
  旅行カウンターの女性が圭を呼んだ。
「パスポートをお返しいたします。ツアーですが、明日の 朝七時三〇分に集合で八時に出発いたします。それとですね、こちらにも書いてありますがジーンズ、Tシャツではツアーに参加できませんので、よろしくお願いします」
  流暢な日本語を操るカウンターの女性はパスポートとパンフレットをカウンターの上に置いた。
  英語と日本語と中国語で書かれたパンフレット。
  旅行センターを出て行き、夕食を食べるレストランに向うが、どう行けばよいのかわからなかったのでホテルのエントランスのタクシー乗り場でタクシーを捕まえ、英語で行き先を告げた。ツアー参加者は現地のチャーターされている観光バスで向かっている。
  タクシーのドライバーは圭がレストランの名前を告げると「O.K.」と言って車を走らせた。
  車のラジオからはポップスが流れている。
  ああ、日本でも聞いたなこの曲。
  ぼんやりと流れる景色を見ていると車が静かに止まり、ドライバーが「Here」と極簡単な英単語で持って到着を告げた。
  小洒落たモダンな白い建物。1枚張りの羽目殺しの窓ガラス。
  ドラマで恋人たちが待ち合わせに使った喫茶店だ。
  今では観光者向けのイタリアンレストランになっている。日本じゃそこいらにあるカフェレストランだ。
「こんな事ならキャンセルして韓定食でも。プルコギでも、ビビンバでも食いに行けばよかった…」
  何がうれしくて日本で食えそうなものを安くはない金額だして仰々しく食べに来なければならないのか。

 件のレストランは可もなく不可もなく、敢えていうなればわざわざ韓国に来てまで食べる価値はなかった。
  圭は一旦ホテルに戻ってからの自由行動が待ち遠しくなった。
  ホテルから歩いて数分のところには有名な繁華街があり、深夜でも人で賑わっていると言う明洞(ミョンドン)に出てふらふらしようと考えていた。
  日本を出る前に部の女性から、安いコスメショップの買い物メモを渡されたこともあり、仕事柄人気商品のサンプルを買うつもりでもいたのだ。男一人で化粧品を買うのは気が引けるが、頼まれものとあからさまに分かるようにメモを貰ったのは正解だったかもしれない。

「お食事はいかがでした?」
  添乗員が声を掛けてきた。
「たぶんお客様には満足していただけていないと思うんですよ」と圭の心を見透かしたようだ。それもそのはずで、圭はあからさまにがっかりした表情をしていたからである。
「まあ、せっかく韓国に来られたのに、普通のイタリア料理だと納得いかないのは分かりますよ。この後、ホテルで一旦解散してからエステ組と買い物組に別れるのですが、吉野さんはいかがいたしますか?買い物は多分東大門市場(トンデモンシジャン)に行くつもりなんですが」
「あ、せっかく声かけていただいたんですが、明日の朝早いのでホテルの近くを見て回ろうかと思うんです」
「明洞ですね」
「ええ、夜遅くても大丈夫だって人づてに聞いて、それに、頼まれもののあるし」
「何かあれば携帯電話に連絡くださいね」
  圭は食事のときにコンダクターから公衆電話のかけ方を教わり、コンビニでテレフォンカードを購入した。
  日本と同じで携帯電話天国の韓国。そう易々と公衆電話があるのかと思えば、日本よりも設置台数が多いのかもしれず、バスの中からでも通りのあちこちに設置されている銀色の公衆電話が確認できた。

 
  ホテルに到着し一息つくと、ちょっとした疲れが出てくる。
「はあ、やっぱ、チジミとか食いたかったな」
  シングルの部屋はビジネスホテルの部屋よりも幾分広く、ゆったりとした空間になっていた。ベッドもシングルではなくセミダブル。
  バスルームも明るく清潔感が漂い、アメニティも有名ブランドのもので統一されていた。
「うわ、すげ」
  シングルの部屋にもかかわらず、力が入っている。
  ユニットバスであるが、そこは致し方ないことでシングルで気兼ねが要らないということに圭は満足していた。
「さて、明洞に行きますか」
  ガイドマップを広げた。
  本当にホテルの近くで、隣は明日のツアーの申し込みを済ませたホテルだった。
「このホテルが目印だな」
  老舗ホテルにチェックを入れた。
「そういえば、親父が海苔とキムチを買うならLホテルか、Lデパートの免税店がいいって言ってたな」
  韓国出張に行った事のある父親から貰ったキムチと海苔は、土産用にソティスフィケートされた真空パックと固めの箱に詰められ、海苔も同じように頑丈な箱に入って中身が壊れないようになっていた。
「嵩張るからこれは最終日で良いよな」と手帳に書かれた買い物リストに日付を入れた。
  今日はやはり、化粧品かな。
  明洞はコスメストリートとも呼ばれているらしく、格安の手ごろな化粧品ブランドがひしめき合っているらしかった。
「探検だな」
 
  圭はコートを羽織り、トートバッグ手に部屋を出た。


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続くんです。ええ。