Winter Comes Around
5.
救いの神とはこの事だったんだと圭は思った。
道に迷い、右も左もわからない場所で途方に暮れていたときに現れた男性だった。
モデルか俳優かと思えるほどに整った顔立ちと圭よりも15センチは高いであろうと思える身長。
その男性の第一声はハングルだったが、ため息交じりに呟いた言葉が日本語だった。
「に、日本語でお願いします!」
縋るようにその男性の手を握っていた。
圭の突拍子もない行動に親切な男性は鳩が豆鉄砲食らったように目を瞬かせて驚いていた。
「時間は大丈夫?」
とりあえず、道の真ん中でやり取りすることでもないし、可能な限り目立つことは避けたい。利宏はバーに少年を連れて入った。
「しまった、君、未成年じゃないよね?」
バーに未成年をつれて入ったのは不味かったのかなと少年に尋ねるといささかムッとした風に「違います」と返事が返ってきた。
「じゃあ、大学生さんだね」
見たままを聞くが、少年は首を横に振った。
「いいえ、社会人ですよ」
あいにく、パスポートは持ち歩いてないんですけど…と、財布に入れてあった日本の免許証を利宏に見せた。
「『吉野 圭』えーと、二十六才?え」
見えない。
どう見ても学生にしか見えないがれっきとした大人だという。小柄な上に、華奢な感じが圭を幼く見せていた。
「えーと、俺は崔 利宏(さいとしひろ)三十一才」
「良かった、声を掛けてくれた人が日本語の話せる人で…」と胸を撫で下ろす仕草をする。その仕草が利宏の心をくすぐった。
まるで子犬のようだ。
「や、俺は日本人。日本語で言ったよ名前。つーか、国籍日本で、所謂在日なわけ」
「あ、そうなんですか。日本の方だったんですか…」どうりで日本語が・・・と独り言をぶつぶつ呟く圭に利宏はまるで、子供に訪ねるかのように聞いた。
「どこに行きたかったの」
「ち、地図が古かったみたいで…それに、北と南が判らなくなって…ホテルに帰られなくって」
もじもじと照れくさそうに赤くなりながら言い訳する姿に利宏は苦笑いを隠せない。
「夜だから目印になるような太陽も沈んでるからねえ。俺もさ、初めてこの国に来たときに同じところで迷ってたんだ」
思わず圭の頭を撫でていた。
「俺もね、六年前に初めてこの国に来てね、君と同じようにあそこで途方に暮れてたの。運良くこの店に入って難を逃れたんだけどね」
懐かしそうに語る利宏に圭はうれしそうに「奇遇ですねぇ」と喜ぶが、すぐに顔を曇らせ、「でも、僕が道に迷うのはお家芸というか、予定調和というか…ものすごい方向音痴なんです…」と最後の方はごにょごにょと小さな声になって自分の方向音痴を告白した。
その様子が可愛く見えて利宏は再び微笑んだ。
「何か飲む?」
「あ、はい」
俯いていた圭が返事と同時に上を向いた。
利宏はハングルと英語で書かれたメニューを渡した。
「あ、あの、コーヒーをお願いします。バーやのに…すいません。俺、アルコールあんまり得意やないんで。それに見知らぬ土地やから余計に…」
恐縮する圭に手を左右に振って大丈夫と利宏は笑った。
「ああ、そんなん、かまわへんて。カフェバーやから。紅茶でもソフトドリンクでも」
圭の関西弁に釣られて利宏も関西弁で答えた。
「もしかして、崔さんも関西のご出身ですか」
「せや。俺は神戸生まれの神戸育ちや」
「めっちゃ奇遇ですね。俺も生まれも育ちも神戸なんです」
「嘘っ」
「ほら、さっき免許証見せたやないですか」と再び免許証を見せた。
「ああ、ほんまや」
しげしげと免許証を見る利宏。写真の圭の表情は硬いが、やはりどことなく少年のようだった。
「なんかすごい偶然ですね」
「俺も、関西弁で人と話すんはめっちゃめちゃ久しぶりや。意外と家も近いんかも知れヘンなぁ」
「や、そこまではないんとちゃいますか。神戸言うても広いし」
「まあ、そうやな。なんつうても、政令指令都市やからな。俺が住んでたんはT区の海っぺりやね」
「結構近いかも。俺はN区です。地下鉄沿いの新興住宅地なんです」
「奇遇やなあ」
「そうですね」
「でな、君はこの国に旅行に来てるんやんな。一人でか?」
「ああ、一応三泊四日のツアーで来てます。ただ、事情があってほぼ全日程自由行動です。明日は板門店ツアーに参加の予定なんですけど」
ガイドブックのツアーのページを見せた。
「ああ、俺も始めて来たときに行ったな。あそこは日本人には考えられないほどに緊張感の味わえる場所や。すぐ隣には自動小銃抱えた兵隊さんがついてくれて、目の前は北ですよって」
「なんかね、ジーパンはだめだって言われました」
「そうやねん。俺が行ったのは夏やったからTシャツだめ。ジーンズだめ。ランニングだめ」
「ええ、厳しいんですね」
「で、向うさんに向かって手を振るのもあかん。間違えても指差したらあかん」北の兵隊さんに撃たれてしまうからね。と笑う利宏に圭は真面目な顔で頷いた。
「それも聞きましたよ」
「でも絶対、ええ経験になる」
日本では経験出来得ない目に見える「国境」。
パラパラとガイドブックをめくる利宏は何気なく圭に「で、そのあとどないすんの」と聞いた。
ツアーの解散時間は2:30〜3:00頃となっていた。韓国の道路事情は平日であれば日本ほど渋滞を起こすことはないので、ほぼ時間通りの解散となるだろう。
「へ」
「板門店ツアーって大体半日や。三時ごろには解散のはずや」
本をパシンッと軽く叩き解散時間を指し示した。
「ああ、その予定ですね。その後は俺は東大門に行こうかと思ってるんです」
「革ジャンを買いに?」
「日本よりも安いって聞いてて」
「あーでも、ぼられるかもな」
「え、ぼるんですか」
「浪花商人よりもたち悪いで」
「そうなんですか…」
利宏の言葉に急に恐怖感が蘇ってきた。
バスで移動は危険だと会社の韓国人に忠告され、ツアーコンダクターに地下鉄の切符の買い方を詳しくレクチャーしてもらった。
何しろ、圭はハングルがまったく分からないのだ。
二十年前だったら韓国にも漢字があふれていたらしいが、今ではハングルが標準になっている。
地下鉄も幸いに番号と英語のアナウンスがあるので何とかなるが、肝心のアナウンスの地名部分が曖昧になる。
「もし良かったらその板門店ツアーの後、一緒しよか」
不安な心情隠さずにころころと子供のように変わる百面相をしている圭に、利宏は少し呆れた感じで誘いをかけた。
「え、ええんですか?」
「いやまあ、俺も明日は昼過ぎで仕事が終わるはずだし、その後は2、3日ほどオフのはずだし」
昼過ぎで終わる仕事に、2、3日ほどオフと言う予定を聞いて圭は利宏が首を捻る。
バーの時計が深夜を指していた。
「うわ、こんな時間」
「あ、ほんまですねえ」
圭はメニューに書いてあった金額の紙幣を出した。
ゼロの数が違えども、貨幣価値、金銭感覚は日本と同じですむのが楽だった。
「じゃ、ホテルまで送るよ。通り道だし」
「情けないですが、よろしくお願いします」
深々と頭を下げる圭に利宏は笑いを噛み殺す。
事実を知れば圭はどんな反応を示すのだろう。
今みたいに真っ赤になって礼を言うだろう。
けして人をなじったりする性質ではないだろう。ほんの2時間程度話をしただけではあるが、圭の穏やかで控えめな性格が好ましかった。自分の周りにはいない人間だったためについ、休みを一緒にと声を掛けた。打算で動く口うるさいマネージャの顔を少しでも忘れたかったのだろう。
「じゃ、あした、Lホテルのロビーに3時ごろで」
「え?」
「なに、嘘だとおもったん」
「いや…あの…初対面やし…」
どこまでも奥ゆかしんだろう。いや、ちがう、胡散臭い人間だと思われてるんだよな。きっと。利宏は苦笑いを浮かべた。
「あ、崔さんが胡散臭いって言うんじゃなくって…」
慌てて言い訳をするも思っていたことをぶちまけてしまっていた。
「思ってたんやな」にやりと笑う利宏に対して圭は真っ赤になって「ごめんなさい」と頭を下げる。
「まあ、普通そうだわな。日本人でしかも『平日にオフ』とか言ってるのってかなり胡散臭いわな」
「すみません…」ますます小さくなる圭。
「まあ、しゃあないな。ちゅうことで、明日は俺に付き合えな」と恐縮する圭に意地悪く笑う利宏。
「で、自分が身分証明書見せてくれたんやから俺もなんか見せなあかんのやけど、生憎とパスポートや身分照明が出来るもんを持ち歩いてないんで、とりあえず職業は『業界人』とだけ言っとくわ。まあ、十分胡散臭い商売してるけど、まあ、これでも、五年ほど前までは普通に神戸で社会人しとったんやけどな」と頭をかきながら名刺を圭に渡したが、ハングルと英語で綴られた名刺は圭には理解不能だった。
「あ、ハングルわからへんねんな」
悪い悪いと渡したばっかりの名刺を取り上げて、バーのバーテンからペンを取り上げ、日本名と携帯電話番号を書き加え、再び名刺を圭に渡した。
「あ、こういう字を書くんだ」
「日本でも見かけるやろ?」
「ええ」
「ほな、お送りしましょ」
「お願いします」
圭は利宏の名前を改めて知ったことにより親近感と安心感を覚え、明日の予定が少し楽しくなりそうな予感A旨を躍らせた。
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