parfum de l'autre personne

 うまい酒が飲みたいなと2ヶ月ぶりに『Artemisia Absinthium』に足を運んだ。
 引越しをして、仕事が忙しくなり終電で帰るか、泊り込むかの日々が続き、今日やっと定時に会社を出ることが出来たのだ。
「お久しぶりですね。げんきそうで。髪形変えたんですね。さっぱりと若返った感じがしますよ」
 相変わらずやわらかい笑顔で迎えてくれる和さん。
「ふふ。ありがとう」
 まあ、あれだけの醜態と修羅場を繰り広げたのだから…心配もしてくれるか。
「あれから会われました?」
「誰に?」
 ああ、あいつのことか。
「あれ?」
「ああ、あいつとだったら別れたよ」今はあっさりといえる。
「ああ、ごめんなさい!」うろたえる和さんは可愛い。
「いや、かまへんかまへん。最後に欲しい言葉聞けたし、ええねん。あれで十分や。でも、和さんには色々と迷惑かけてしまったよねえ。ごめんなさい」
 本音が聞けただけで十分。
 たぶん永遠の片思い。
「そんな、あやまらないでくださいよぉ。でも…別れてしまったんですね…」しんみりとした口調で、少しだけ肩が下がっている。
「何で和さんが落ち込むの?」
「や、まあそうですね。僕が落ち込んでもしょうがないですよね。瓜生さんが元気そうなのに」
 あの後、暫く落ち込んだ。
 忘れようと仕事に取り組んだ。おかげで成績もアップした。
 家にあったあいつの荷物はすべて捨てた。
 残っているものなんてほとんど無かったけど。
 好きで好きで仕方が無かった。
 だけど、俺は男で、仕事を捨てるわけにもいかないし、あいつが築き上げた地位を捨てさせるわけにもいかなかった。
 これでいいんだよ。
「そう言えば、バースデーカードをお出ししたんですが、戻ってきてました」
「ああ、ごめんごめん。引越ししたんだよ。もう少し便利なところにね」
「そうなんですか。どちらに?ってお聞きしてもかまいませんか?」
「あ、あとで、書くよ。だって、毎年ここの系列から来るバースデーカードの割引は楽しみだもん」
 この店のオーナーは何軒か店を持っていて、会員ではないが、ひいき客にはちょっとした特典を付けてくれている。それが誕生日割引。
 ここのバーだったら、好きなカクテル1杯とおつまみをプレゼントしてくれる。
「今年は逃しちゃったけど」
「大丈夫ですよ、店長権限でお誕生日お祝いさせていただきますよ」
 と、赤のスパークリングを出してくれた。
「珍しいね。スパークリングで赤なんて」
「ええ、オーナーがイタリアンの店でがめてきたって言ってました。早く飲まないとガスが抜けちゃうから遠慮なくお変わりしてください」
 おつまみはプレーンソルトのプレッツェルを砕いたものと小さくかっとされ、盛り付けられたチーズ各種。
「美味しいお酒飲むのは久しぶりや。ここんとこばたばたと忙しくて」
「そのようですね」
「あ、おれ、部署変わってん」と新しい名刺を渡した。
 ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ出世した。
 俺の鼻が言うことを聞いてくれなくて匂いを嗅ぎ分けることが出来なくなって、異動を希望した。
 以前は香料開発。ボディソープやシャンプーなんかの香料。
 仕事のひとつで常に嗅覚を鍛え、何万種類ににおいを嗅ぎ分ける。
 街行く匂いに気をとられることがしばしば。流行のパフューム。流行のシャンプー。流行の制汗剤。
 満員電車の人の体臭で気絶しそうになったこともある。
 それなりにやりがいを感じていた仕事だけにやめたくは無かったが、鼻が匂いを感じ取れなくなっていた。
 食べ物の匂い。
 花の匂い。
 気に入っていたトワレの香り。
 全部分からなくなっていた。
 上司に相談して、違う部署に異動を希望した。
 匂いを嗅ぎ分けなくても調香は出来る。だけど、好きだった仕事だけに中途半端にかかわりたくは無かった。異動が聞き入れられなかったら、やめても良かった。
「あ、主任さんになられたんですね」
 丁寧に俺の差し出した名刺を受け取りながら、裏返したりして眺めている和さん。
 運良く、主任という肩書きをもらい、研究に没頭できる部署に異動させてもらえた。
「写真が入っているのですね」
「悪用防止ですよ」
「へえ、主任さんかぁ…」
「や、あの、すかしてみても何もありませんてば」
 名刺をライトにすかしてみたりと色々弄ってくれている。
「あはは、そうですよね。ありがたくいただきますね」そういって、彼のサロンのポケットから出てきたケースにしまっていた。

 カラララン

 軽やかなカウベルが響く。
 新たな客が入ってきたという知らせである。
「いらっしゃいませ。安井様」
 上背のある男がコート片手に入ってきた。
 和さんはカウンタで花が咲いたように笑っていた。
 ああ、話に聞いていた和さんの好きな人だなと思ってその人物を見ると、見たことある顔だった。
「しゃ、しゃっちょー?」
 間違いない。この男前はうちの社長だ!
「ん?」
 安井誠一郎取締役社長だ。
 就任当時は経済史の表紙を飾ったりするほどに取りざたされ世間を沸かせた。若さと美貌と知性と兼ね備えた優れた人材であると、誰もが賛辞した。 だからといって、けしてえらそうだったりするわけではなく、社員には慕われているし、末端の営業所などにも顔出しをする(別名抜き打ち)。
 その社長が俺の目の前にいる。方眉を上げて、俺を見据える。
「うちの社員か?」
 上着と見たところゼロハリかリモワあたりのアルミのアタッシュケースを和さんに預けた。
 社長を目の前で見るのは初めてで、とにかく緊張してしまう。
「ははは、はい」
 カウンターで固まる俺をみて笑う社長。
「うちの社員にもここを知っている趣味のいい奴がいるとは」
「おそれいりままますっ」
「瓜生さん、緊張しすぎ」
 くすくすと笑う和さん。
「だだだって、しゃしゃしゃ社長…」だもん。いつものように言葉が出てこない。
「俺はそんなに殿上人か?」
 必要以上に上がっている俺にちょっと怒ってるようだ。
「和、いつもの奴」
 男が見ても惚れ惚れする人が隣でスツールに腰掛け注文する様さえも決まっている。
「かしこまりました」恭しく注文を受け取る和さん。
 社長はスツールごと俺の方に向く。
「もしかして、この店で修羅場繰り広げたのは君か?」
「は?い?」
 もしかしてあの時いた客の一人なのか?と、焦りながら和さんを見ると、「ごめんなさい。報告しちゃった」笑って舌を出す和さん。
 俺よりも少し年上だけど、可愛いよ。
「は、はずかし…」ほんまに穴があったら入りたい。
「で、名前は」
「私ですかっ」
「そうだ、君の名前だ」
「あ、ははははいっ。R&D基礎材料の瓜生崇ともうしまっす!」
「主任さんなんだよ。すごいよね、僕より若いのに」
「一つしか変わんないじゃないですか。それに、主任ってついても給料そんなに変わんないし…って」
 やば、社長がいるのに!
「聞き捨てなら無いことを聞いたなあ」
「あああ、いやあ、もうしわけありません!」
「まあ、貴重な社員の本音だな」 
 ああ、俺ってば、俺ってば、何でこう口が悪いかなあ。

 
 

続く。  

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