parfum de l'autre personne

 安井社長は気さくだった。
 なんだか頼れる兄貴って感じの人だった。
 緊張している俺を散々からかって、後からオーナーも混じっておもちゃにした。
「ふーん、そんな臭いものも一緒にされてるんだ」
 香料の話になって、つい先日まで香料関係の職場だったことをうっかり口滑らしてしまい、質問攻めにあってしまった。
 フローラルな華やかな香りを引き立てるためには動物系の成分をほんの少し足すと引き立つ。とか、香水を付けすぎる女性は自分がにおわないと香りがしていないと勘違いしているとか。
 実験中に香料をこぼして一日中いやな顔されたりとか。
「一度ね、桃のような香りのロウマテリアル(原料)をぶちまけたことがあって、3日ぐらい取れなかったんですよ。ずーっと、ピーチ。自分は鼻が麻痺しちゃうから分からないんだけど、周りの人がくんくん鼻を鳴らすんですよ。まさか、いい年こいた男がピーチの匂いなんてねえ」
「うわあ、強烈そう」
「ふふふ強烈ですよ、ずっとピーチフレーバーのガムの匂いがするんですもの」
「じゃあ、ピーチのお酒出しましょう」
 和さんがピーチやらイチのリキュールのビンを取り出した。
 お酒を飲んでも酔えるけど、リキュールなどの香りを楽しむことは今の自分では出来ない。
「やだなあ…和さんいじめっ子」
「冗談ですよ」
「良かった。それに、今の俺にはどんな強烈で臭いものを出されても何も分からないですよ」
「え?」
 和さんと社長が声をそろえて俺の顔を見た。
 なんだか分けわかんない迫力があるよ。
「や、あの、俺の異動の理由が香りの『識別』出来なくなったからですから。体調壊した時からなんですよ」
 軽く言ったつもりが和さんはもじもじと、リキュールのビンを下げた。
「ご、ごめんなさい…」
「あ、や、気にせんといてください!あー、もー、困ったな」
「直る見込みはあるのか?」
「さあ…分からないです。でも直ったところで、香りの判別に関してはも一度勉強しなおしですよ、アスリートと同じで1日のサボりで取り戻すのに1週間かかるんですよ」
 ニヤニヤ笑い加えたタバコに火をつけながら「うちの昇進試験は難しいぞー」と言った。
「ええ、大変です」
 一度受けたことがある。上司に進められて受けた試験。
「実は、俺も受けたことあるからな」
「え?」
「まあ、一応俺もペーペーから始めたってことだ」
「ぁ、そうなんですか」
 意外だった。
 御曹司だけに入社していくらも立たないうちにぽんっと重役職についていたのかと思えば、昇進試験などもこなしていたとは。
「意外だと思っただろう。俺は、この会社に入る前はぜんぜん分野の違う仕事をしてたんだ。この会社に入社したときは俺はあちこちの部署にたらいまわしにされたなあ。2年間間で、メールから研究補助まで」
「はあ」
「まあ、幾分かは人よりも楽をしてはいるな、一族のこととか含めてな」
 だけど、若くして会社を動かしていこうとするのはすごく大変だと思う。持って生まれたカリスマ性とか関係しているのだろうけど、大変なことだと思う。本当はこうやって気軽に話せる人じゃないんだってこと。
「まあ、なんだ、所詮俺も普通の人間だよ」
「親ばかで」とオーナー。
「恋人に甘く」和さん。
「で、子供たちと恋人に振り回されるただの男だ」
 社長はカウンタ向こうにいる和さんをやさしい目で見る。
 いいなあ。
 幸せそうで。
「なんか当てられちゃった」
「ふふふ」
 幸せそうに微笑む和さんはすごく可愛い。
「こいつが君が勤める会社の社長が常連だからといって、この店を避けないでほしいな」
「もちろんですよ!こんないい店…それに俺は何度も生き恥晒してるんですから…常連辞めるつもりはないですよ」
「んじゃ、ボトル入れろ」
 オーナーはターキー12年のボトルを俺の目の前に差し出した。
「うへえ」
 懐寂しいのになあ。
「安井、お前もそろそろボトルが空くぞ」
「早いな」
「ああ、この前松田と世良君が来たからな」
「あのやろう…」
「あ、僕もいただいてます」
 にっこり笑う和さんの手にはなみなみと注がれたウィスキーロック。
 氷なし。
 お茶飲んでるものだと思ってた。
「お、おまえ!」
 したぉ出す和さんに社長が目を丸くさせている。
「こいつ笊(ざる)】通り越してるからなあ…こいつの酒代たかくつくぜー」
 オーナーが新しいボトル用にプレートを古いボトルからはずし日付を書き直している。
 なんとも小粋なプレート。
 何でもシルバーアクセサリーのデザインをしている人に依頼して作ったアルミのプレートらしく、フレア(百合の紋章)が彫られている。
 カウンター後ろに並べられているキープされているボトルたち。
 ブランデーだったり、焼酎だったり、バーボンだったり、変わったものではコーヒー豆の入ったボトルだったり。
「・・・・・・」
 俺の名前が書いてあるボトルがあった。
「ああ、気づかれました?」
 なんで?
「瓜生さんのボトルはすでにあるんですよ、オーナー」
「入れた覚えはないのに」
「ええ、あの方が置いていかれたものです。あの方は瓜生さんとのあの部屋での言い合いのあと、毎晩ここに来られていました。思いつめるような顔をされて、ターキーが何羽入れ替わったことか。私に瓜生さんのお住まいを確認しましたが、店で保管している顧客情報を感嘆にはお教えできませんから、あの方がおっしゃった住所が私が知っている住所かどうかお答えしたんですが、そのときには瓜生さんはお引越しを済まされていたのですね」
 いつ押しかけてくるかもしれない。
 手放せなるくらいだったら離れてしまわないと。
 そう思ってすぐにあのアパートを逃げるように出た。
 すぐには部屋は見つからないから、会社の総務の子に頼んで、長期出張者が利用するウィークリーマンションを紹介してもらった。 家具は愛着のあるもの以外は処分してトランクルームに預けた。
 そして見つかったのが今の部屋。
 前のアパートのように格安ではないが、部屋が増えた分高くなったと思えばいい。
「そうだね、あの後すぐに仕事が忙しくなったし、色々とばたばたしていたからね」
「先月の末に一応最後だっておっしゃってました」
「ふうん」
 何回か会社にも電話があったらしいが、会議中だ、外出だのと言って電話を取ることはなかった。携帯も解約して別のに買い換えた。
「和さん、悪いけど、別のボトル作ってくれる?」
「え?どうして」
「どうしてって、気持ち悪いやん、別れた奴が残していったボトルなんてさ」
 全部捨てたはずなのになあ。
 最後の最後に思ってもいなかった場所で残して行ってるんだ。
 
「瓜生君?瓜生君?」
 迫力美形のオーナーがぼんやりとしている俺の目の前で手を上下させていた。
「うあはははい」
「何ぼんやりしてるの。ボトル入れてくれるんでしょ」
 どんっと、ターキー12年を目の前に置いた。
「お財布の中身寂しいのになあ・・・」
 と、尻ポケットに差し込んでいる財布を取り出し、一万円札を手渡す。
「まあ、ボトル入れときゃ、暫くの間はビンボー君でも大丈夫さね。うちはチャージが安いことが売りだから。あ、ボトルのお客様はおつまみもお変わりし放題ね」
 妙に釜っぽいしゃべり方をするなあ、今日のオーナー。
「カマしゃべりはやめれ」
「あらあん、いいじゃなあい」
 きも。
「瓜生君も冷たーい目でお前を見ているぞ。ボトル入れてくれないようになるぞ」
「そりゃ、こまる。瓜生君こいつのボトル、君が来たときはいつでも出してあげるから」
 そういって見せたのはヘネシーとフォアローゼズのプラチナ。
「うわ、プラチナ・・・」思わずつばを飲み込み喉を鳴らしてしまった。
「今度、飲もうねー」と空に近いグラスを鳴らす和さんに俺はたぶん満面の笑顔で「ええ、喜んで」と同じようにグラスを鳴らすと、じっとりと睨みつける社長がいる。
「瓜生君、給料10%カット」
 なんだかすねた感じで可愛いかも。
「え」薄給の上に減給はきついっすよ。
「誠一郎さんひどいっ!」両手で握り締めていたグラスを置いて社長の手を握り締めた。
 そんな二人を傍目に「気にすんな気にすんな」オーナーは俺の社長の入れたフォアローゼズのプラチナを注いでくれた。
「和も今度酒臭いままうちのガキどもの相手しやがったら、禁酒さすぞ」
「えーーーっ」
「お前もカマの振りなんかしやがったら、ぶっ飛ばしてやるからな」
「ひどおーーーいっ」オカマのままムンクの真似。
「きもおーーーいツ」同じようにカマっぽく俺は言ってみた。
「ひどいわね!瓜生君、いや、崇くうん」科を作り、俺にもたれてきてグラスを取り上げた。
「あ…」
 とらないでそう思ったのに、オーナーは俺のバーボンロックを飲み干してしまった…
「き、貴重な…」
 打ちひしがれる俺。
「和、瓜生君にお変わり入れてやって」
 とプラチナのボトル。
「うわ」
 あからさまな俺の顔に、社長は「月曜日からはきりきり働けよー」と笑った。
「ラッキーだったね」と俺と和さんは目を見合わせた。
 ふふ。
 このお店で飲む楽しみが増えた。
 やさしいバーテンとおかしなオーナーがいる店。


「や、もう、飲みすぎちゃいました」
 ふわふわとした浮遊感が気持ち良くて、ついつい顔の筋肉という筋肉がほころんでしまりのない顔になっているのが自分でも良く分かった。
「楽しかったねー」
 ほとどによっぱらっている和さんはすでにバーテンではなく、普通の友人のようにタメ口で、その上恋人にべったりと甘やかしてもらっていた。
「はい。今日はありがひょうございまひた」と自分でも分かってはいるのだが、どうにもろれつが回らない。
 こともあろうに社長にタクシーを手配してもらい、その上チケットまでいただいてしまった。
「気を付けて帰れよ。月曜日からきりきり働けよ」そう言って見送ってくれた。
 なんとなくほっこりとした気分で自分のマンションに帰り着いた。
 引っ越してから回線を引きなおした電話に留守番電話のメッセージランプが点滅していた。
 
 
 

続く。  

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