parfum de l'autre personne

 なんとなくいやな予感がした。
 こんなときは当たるのだ。
 あ〜あ、せっかくいい気分だったのになぁ。
 実家の悪寒。
 いや、おかん。
 見合いの話し。
 突然来訪。
 どれも今まであったこと。
「ふう・・・」
 再生ボタンを押すと、メッセージが流れる。暫くの沈黙のうちに「…たかし!今年は帰ってくるのツ?」それだけ言って切れた。
 ……おかん、それだけかよ。帰らないよ。
『瓜生、俺だ。来週末にいったん帰国する。あって話がしたい。金曜日の夜8時ごろにレガシーグランデのロビーで待ってる』
 もう、話すことなんてないのに。
 よりにもよってレガシーグランデって…俺の会社の横じゃねえかよ。
『逃げるなよ。お前が住んでいるところぐらい調査済みだからな』
 声色が怒っている。
 何も言わずに逃げた俺を攻めている。
 名のに俺はまだ、逃げることを考えている。
「残業…」しよっかな。
 上司にはいやな顔をされるかも。


 なんだかんだと無気力なまま一週間が過ぎ、約束の時間になってしまった。

 ぶっちしてしまおうかな。 

 ……いや、これじゃ、堂々巡りだ。
 腹を括らないといけないんだ。
 この一週間、こんなことを何回も繰り返している。
 うだうだとしている間に時間は7時半になり、気がつけば俺は今日一日まともに仕事をしていなかったことになる。 
「主任、今日はなんか、冴えてませんでしたね」
 とタイムシートを差し出す派遣スタッフの女の子。
「うん、ごめんね、こんな上司で・・・」
「何言ってるんですか、たまにはいいんじゃないですか。異動してきてから主任はいつもバリバリやってましたから、たまには空気抜けちゃっても」
 恐縮する俺に彼女はおおらかに笑ってくれる。
「ありがとう」
「それじゃ、お先に、良い週末を〜」
「ユンさんもね」
 週末の所為か吹き抜けを見下ろすと明かりはまばらになっていた。
「主任お先失礼しますねー!」
 元気よく軽い残業をこなして出て行ったのは頼りになる部下の沢渡君。毎日自転車で通う元気な子だ。
「はーい、おつかれ」
 俺も出よう。そう思って時間を見ると8時過ぎていた。
 鉛のように足が重いよ。
 部内の電源をすべて落とし、ラボの鍵を閉めて自分の荷物を持ち、社印象を手にした。
 
 エントランスホールを出るとホテルのエントランスが見える。
 日本有数の高級ホテルで、国内外に系列ホテルをいくつもあって、ついでに会社がよく使っているホテルである。
「確信犯め」
 忌々しく呟き、ドアマンがお辞儀する前を通り過ぎると、すぐに視界にあいつが飛び込んできた。
 仕立ての良いピンストライプのスーツを身に着け、長すぎてあまってますといわんばかりの脚を組み、ものすごく不機嫌そうな顔でソファにふんぞり返って出入り口を睨み付けている。否、俺を睨み付けている。
 嫌味たらしくも、奴の手元にある灰皿が山盛りになっていた。
「……」
 まるで引力かなにかで引っ張られるかのように俺は奴の前に立った。
「さて、と、ここじゃ話もできねえからな、部屋にこい」
「ここで出来ないような話だったら帰る」
 きびすを返そうとした瞬間、「ここで、修羅場演じてやろうか」俺の腕を取り、耳元で低い声で囁いた。
 俺の会社が隣にあって、このホテルもよく利用するってことを知っているのだ。
「…っ卑怯者……」
「それはお前のほうだろうが」
 それを言われるとついて行くしかないじゃないカ…
 俯く俺は奴の足元だけを見てついて行く。
 エレベータに乗り、軽やかな「ぽーん」という音が希望階に着いたことを知らせるが、何階に付いたのかも分からなかった。
 奴の足だけを追った。
「ついたぜ」
 奴がドアを開けると俺が泊まったことのないだだっ広い部屋だった。
 眼前には大きなガラスの羽目殺しのどがあり、1億ドルとも言われている夜景が広がっていた。
 俺なんかより見入りのいい職についてるのは知っている。
 立場も俺なんかよりも上だってのも知っている。
 だから、俺なんかを部屋に入れるよりもふさわしい相手がいるんだろう。
「適当に座れよ」
 そういわれても適当なところなんぞ見当たらない。
 立ち尽くす俺に苛付いたのか、奴は俺の腕を取り、強引にソファに座らせた。
「さて、と、『なぜ逃げた』と聞きたいところだが、俺に十分な非があることぐらいは分かってる。お前を振り回していたという自覚も十分にある。が俺がこういう奴でも言いといったのはお前じゃなかったか?」
 自分に十分な非があると認めていても、俺に責任を転嫁するんだな。
 我慢できなかった俺が悪いのか?
 こんな男に惚れた俺が悪いってのは分かるけど、我慢だって限界が…ある。
「う……」
「泣くなよ…俺が泣かしてるのは分かってるんだけどな」
 自分の拳に力がこもる。
 握り締めたズボンの生地は頬から落ちた涙を吸ってしみを作っている。
「心入れ替えて帰ってきたんだけどなあ」
 俺の横に座り、俺の肩に手を回し抱き寄せる。
 鼻を掠める匂いが鍵をかけた筈の記憶を呼び戻す。
「う…」
 嗚咽が漏れ出てくると同時に嘔吐感が湧き上がってくる。
 口を押さえうめく俺に怪訝な顔で覗き込んでくる。
「瓜生?」
 あかん!
 そう思った瞬間に俺はトイレに駆け込んでいた。
 部屋の間取りすら知らず、どこにあるかも分からないはずのトレイに本能的に駆け込んで、大理石の床にへたり込み、便器に顔を突っ込んでいた。
「うげぇ…」
 なんだって、便器に顔突っ込まなきゃいけないんだよ。
 自分で自分が情けないよ。
 饐えた臭いの胃液が出るほどにまで胃に収まっていた本日の食事を吐き出した。
 それでも吐き気はおさまらない。
 げーげーやっていると、バスルームの扉を開ける音がした。
「瓜生…」
 開け放たれたトイレで便器に向かってへたり込んでいる俺の背中をさする。
「そんなに嫌われてるのか…俺に触れられると吐き気がするほどに…」
 吐き気じゃねえよ、吐いてんだよ。
 お前のせいで仕事が出来なくなった。
 お前のせいで、嗅覚と味覚が使い物にならなくなった。
 どんな臭いのものでもまったく匂わないか、吐き気を催すほどに敏感に反応するかのどっちかになってしまった。
 ぽろぽろと流れる涙。
 本当は傍に居て欲しかった。
 においをすっきり落として俺をだまし通して欲しかった。
 本当にそれだけでよかったのに。
 やさしく背中をさすってくれていた手が離れていこうとしたとき、俺はとっさに腕をつかんだ。
「瓜生…」
 とっさの俺の行動に目を白黒させている。


続く。  

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